第4話 タワーマンションを買う男
第4話 タワーマンションを買う男
土曜日の夜、観月は薄い水色の部屋着に生成り色のエプロンを重ね、台所で肉ジャガを温め直していた。北斗は午後八時を過ぎてから帰宅し、夕食より先に風呂へ入ると言って、脱いだスーツをソファへ放り投げた。リビングには牛肉としょうゆの甘い匂いが漂っていたが、鍋の中のジャガイモは何度も温めたため、角が崩れかけていた。
「ワイシャツ、ポケットにボールペンが入ったままだったわ。洗う前に確かめてね」
「妻なんだから、お前が確認すればいいだろ」
「前にポケットを触ったら、勝手に人のものを見るなと言ったでしょう?」
「口答えするなよ。風呂から出るまでにビールを冷やしておけ」
北斗は黒い靴下を廊下へ脱ぎ捨て、浴室へ入った。間もなくシャワーの音が聞こえ、北斗が鼻歌を歌い始める。観月は落ちている靴下を洗濯籠へ入れ、食卓に置かれた北斗のスマートフォンには触れないようにして肉ジャガを並べた。
そのとき、短い電子音が鳴った。暗かった画面が明るくなり、メッセージの通知が表示される。送り主の名前は「彩香」で、その下に文章の一部が見えていた。
『次はいつ泊まれる? この前と同じホテルがいいな』
観月の手から、木製のお玉が滑りかけた。鍋の縁に当たって鈍い音を立て、煮汁が一滴、白いガス台へ落ちた。風呂場では北斗がまだ鼻歌を歌い、湯気の立つ音に交じって、シャンプーの容器を置く音が聞こえた。
観月はスマートフォンを持ち上げなかった。通知を開かず、暗証番号を推測しようともしない。食卓から少し離れた位置で、自分のスマートフォンを取り出した。
画面に表示された日時、送り主の名前、見えた文章だけを記録する。撮影した画像には、食卓の端に置かれた北斗のスマートフォンと通知画面がそのまま写っていた。観月は撮影時刻を確認し、画像を弁護士へ渡すための保存先へ複製した。
浴室の扉が開く音がした。観月は自分のスマートフォンをエプロンのポケットへ戻し、こぼれた煮汁を布巾で拭いた。北斗は黒いTシャツと灰色のスウェットパンツに着替え、濡れた髪をタオルで乱暴にこすりながら食卓へ来た。
「ビールは?」
「冷蔵庫に入っているわ」
「出しておけって言っただろ。気が利かないな」
北斗は食卓のスマートフォンをつかみ、通知を確かめた。観月は背を向けて冷蔵庫を開け、最後の一本だった缶ビールを取り出す。背後から素早く文字を打つ音が聞こえたが、観月が振り向いたときには、北斗はスマートフォンを伏せていた。
「誰からだったの?」
「会社の人だよ。月曜の打ち合わせの確認」
「女性の名前が見えたわ」
「派遣の女だ。資料のことで連絡してきただけだよ」
「次はいつ泊まれるのか、聞いていたけれど」
北斗の手が止まった。開けたばかりの缶から泡があふれ、親指を濡らした。北斗は舌で泡を舐めると、観月をにらんだ。
「勝手に俺のスマホを見たのか?」
「食卓に置いてあって、通知が表示されたの。触っていないわ」
「嘘をつくな。お前、人のスマホを盗み見るような女だったんだな」
「見えた文章を聞いているだけよ。その人と、ホテルに泊まったの?」
「会社の連中で出張したときの話だよ。男女別の部屋を取ったんだ。普通に考えれば分かるだろ」
「同じホテルがいい、と書いてあったわ」
「しつこいな! 俺が浮気してるとでも言いたいのか?」
北斗は肉ジャガの鉢を自分の前へ引き寄せ、大きなジャガイモを箸で割った。中まで味が染みていないと文句を言い、七味唐辛子を何度も振りかける。その手首では、毎月四万円を支払っている銀色の腕時計が、照明を反射して光っていた。
観月は向かい側へ座り、小さな茶碗に盛ったご飯を口へ運んだ。米は自分の金で買ったものだったが、そのことを今夜は言わなかった。北斗の言い訳を崩そうとするより、彼が何をするのか記録するほうが先だった。
翌朝、北斗は十時近くまで眠っていた。観月は黒いカーディガンを羽織り、ベランダへワイシャツを干した。春の風はまだ少し冷たく、柔軟剤の香りが隣の家から流れてくる焼き魚の匂いと混ざった。
観月は台所で一人分の紅茶を入れ、これまでの記録を食卓へ並べた。北斗の帰宅時間、休日出勤と称して家を出た日、泊まりの出張だと説明した日を、手帳から一覧表へ移す。クレジットカードの家族向け利用通知に表示された店名も、分かる範囲で照らし合わせた。
三月二十一日には、午後十一時四十分にホテル近くのレストランで二万八千円を使っている。北斗はその日、取引先との懇親会だと話していた。四月九日の外泊では、観月に日帰り出張だと告げながら、翌朝まで帰宅しなかった。
北斗が起きてくると、観月は資料をすぐに片づけた。北斗は寝癖のついた髪のまま冷蔵庫を開け、朝食はないのかと尋ねる。観月が食パンと卵を出すと、自分で作れということかと不満をこぼした。
「目玉焼きでいい?」
「ベーコンも焼いてくれ。二枚な」
「ベーコンは昨日でなくなったわ」
「買っておけよ。それくらい分かるだろ」
「生活費は、あと千三百円しか残っていないの」
「また金か。お前と話してると、朝から気分が悪くなる」
北斗は観月が焼いた目玉焼きへしょうゆをかけ、黄身を崩してトーストにつけた。食卓の上には、新しいゴルフ雑誌が置かれている。付箋の貼られたページには、五万円を超えるゴルフバッグが紹介されていた。
月曜日、観月は相沢弁護士へ連絡した。事務所へ通知画面の写真と帰宅時間の一覧を持参し、北斗が説明した出張の日程も伝える。相沢は資料を確認し、通知だけでは不貞行為の十分な証拠にならないと説明した。
「ご主人のスマートフォンを無断で操作しなかったのは、よい判断です。今後も暗証番号を破ったり、なりすまして返信したりはしないでください」
「ホテルへ行っている証拠が必要ですか?」
「離婚や慰謝料請求で争われた場合、客観的な証拠が重要になります。次に会いそうな日を絞れるなら、調査会社へ依頼する方法があります」
「今月の金曜日に、二度遅く帰っています。来週も金曜日は会社の飲み会だと言っています」
相沢は信頼できる調査会社を紹介し、料金と調査範囲を確認してから契約するよう助言した。観月はその場で依頼を決めず、一度資料を持ち帰った。帰り道で総菜店の前を通ると、揚げたてのコロッケの匂いがしたが、列には並ばず、家に残っているジャガイモで作ることにした。
その夜、観月はジャガイモをつぶし、刻んだタマネギと少量の挽き肉を混ぜた。手のひらで丸く整え、パン粉をつける。油へ入れると細かな泡が立ち、香ばしい匂いが台所から廊下まで広がった。
北斗は帰宅すると、観月の左腕を見た。痣はまだ薄く残っていたが、謝ることはなかった。代わりに、調査会社の資料が見つからないよう、観月が何度も確認した鞄へ目を向けた。
「この前から、その鞄をよく使ってるな」
「病院の書類を入れているの」
「俺のことを医者に何か言ってないだろうな?」
「起きたことを説明したわ」
「夫婦げんかくらい、どこの家にでもあるんだよ。大げさに騒ぐな」
観月は揚げたコロッケを金網へ載せ、余分な油を落とした。北斗はキャベツの千切りをもっと細くできないのかと言いながら、コロッケを三個食べた。最後の一個は明日の弁当に入れるから残してほしいと頼んだが、北斗は半分だけかじり、皿へ戻した。
数日後、観月は調査会社と正式に契約した。費用は自分の口座から支払い、北斗が彩香と会う可能性の高い金曜日だけを調査対象にする。調査員へ渡した写真は、二年前の社員旅行で撮影された北斗の姿を切り抜いたものだった。
最初の金曜日、北斗は同僚との飲み会だと言って午後七時に会社を出た。しかし、調査員から届いた報告では、一人で繁華街へ向かい、駅前で若い女性と合流していた。女性は肩までの茶色い髪を巻き、淡い桃色のワンピースに白いカーディガンを合わせていた。
その女性が彩香だった。二人は腕を組み、照明を落としたイタリア料理店へ入った。窓際の席へ向かい合って座り、北斗は赤ワインを注文した。
「北斗さん、奥さんに怪しまれてない?」
「大丈夫だよ。あいつは俺がいないと生活できないから、何も言えないんだ」
「この前、メッセージの返事が遅かったでしょう。見られたのかと思った」
「通知が出ただけだ。適当にごまかしておいたよ。あいつ、社会経験がないから、俺が説明すればすぐ信じるんだ」
北斗はメニューを開き、値段を気にする様子もなく牛肉料理と魚介の盛り合わせを注文した。彩香はワイングラスを傾け、次に泊まる場所について話し始める。北斗は結婚指輪を外し、スーツのポケットへ入れた。
「離婚はいつするの?」
「もうすぐだよ。妻が泣いて謝るから、話が進まなくてさ」
「本当に離婚したら、どこに住むの? 今の家は奥さんと使っていたんでしょう?」
「もちろん引っ越すよ。湾岸のタワーマンションを見てるんだ。高層階から夜景を眺めながら、二人でワインを飲もう」
彩香は目を輝かせ、どのくらいの広さなのかと尋ねた。北斗は三つの寝室と広いリビングがあり、共用部分にはジムやラウンジもあると答えた。実際には物件を探したことすらなく、十八万円のゴルフクラブと毎月四万円の時計代で、預金残高は減り続けていた。
「北斗さんって、やっぱりすごい。係長なのに、そんな部屋を買えるの?」
「もう次の管理職候補だからね。年収も一千万は超えてるし、投資でも増やしてる」
「投資もしてるの?」
「会社員の給料だけに頼る時代じゃないだろ。俺くらいになると、資産にも働いてもらうんだよ」
北斗が実際に持っているのは、会社の持株会で積み立てた十数万円分の株だけだった。それでも彩香は疑わず、タワーマンションでは白いソファを置きたいと笑った。食事のあと、二人は近くのホテルへ入り、翌朝まで出てこなかった。
調査は翌週の金曜日にも行われた。今度は彩香が会社から少し離れた駅で北斗の車へ乗り、二人で郊外のホテルへ向かった。入るところと出るところが時刻入りで撮影され、北斗の車の番号も確認できた。
二週間後、観月は相沢の事務所で調査報告書を受け取った。封筒の中には、北斗と彩香が手をつないで歩く写真、ホテルへ入る写真、翌朝に出てくる写真が並んでいる。北斗は同じ日、観月へ「部長と朝まで仕事の相談をする」とメッセージを送っていた。
観月は写真を一枚ずつ確かめた。北斗が彩香を見るときの顔は、家で見せるものとは違っていた。口元を大きく緩め、彩香の荷物を持ち、ホテルの扉まで先に開けている。
「夫は、家では買い物袋さえ持ちません。重いと言うと、主婦ならそれくらい運べと言います」
「証拠としては十分な内容です。すぐに離婚を申し入れることもできますが、観月さんの安全と転居先を先に整えましょう」
「はい。もう少しだけ、知らないふりを続けます」
観月は報告書を封筒へ戻した。写真を破りたいとも、北斗へ突きつけたいとも思わなかった。小さな手帳を開き、引っ越し業者、貸金庫、新しい住居という三つの項目を書き加えた。
その日の夕食は、豚肉とキャベツのみそ炒めだった。観月は緑色のカットソーに白いエプロンをつけ、フライパンを揺すっていた。みそが焼ける匂いの中へ北斗の香水が混ざり、玄関から近づいてきた。
北斗は紺色のスーツを着て、上機嫌で帰宅した。彩香から投資で成功した男性の動画を見せられたらしく、食卓へ座るなり株の話を始める。観月がご飯とみそ汁を並べても、北斗はスマートフォンの画面を見せることに夢中だった。
「見ろよ。この男、三十代で十億稼いだんだってさ」
「そう」
「俺も株を始めようかな。会社で働くより簡単そうだ」
「簡単そうに見える人ほど、見えないところで勉強していると思うわ」
「何を難しく考えてるんだよ。株なんて簡単だろ。安いときに買って、高くなったら売ればいいんだから」
観月は水を一口飲み、北斗の顔を見た。ホテルの扉を開け、彩香を先に通している写真が頭に浮かんだが、表情には出さなかった。北斗の腕時計は今夜も銀色に光り、その向こうでは、冷めたみそ汁に薄い膜が張り始めていた。
「そうね。損を小さくできる人ならね」
「そんなの、下がる前に売ればいいだけだろ」
「下がる前だと、どうして分かるの?」
「ニュースを見れば分かる。お前は数字を眺めているだけだから、物事を難しく考えすぎるんだよ」
北斗は豚肉を頬張り、投資を始めたら観月にも教えてやると言った。観月は返事をせず、冷蔵庫に残っている豆腐の賞味期限を思い出していた。明日の朝は、豆腐とネギのみそ汁にすれば無駄にせずに済む。
目の前の男は、年収一千万円の管理職でも、タワーマンションを買える資産家でもなかった。妻へ三万円しか渡さず、時計とゴルフ用品の支払いに追われながら、浮気相手には夜景の見える暮らしを約束している。さらに今度は、知識もないまま投資家になろうとしていた。
観月は食事を終え、北斗が残したキャベツを保存容器へ移した。相沢から受け取った調査報告書は、すでに貸金庫へ預けてある。北斗がどれだけ話を作り替えても、ホテルの出入りを写した写真の時刻は変わらない。
「そのうち、俺が稼いだ金で、もっといい家に住ませてやるよ」
北斗は彩香へ約束したタワーマンションを、今度は観月にも自慢した。二人に同じ夢を見せているつもりなのだろう。観月は冷めたみそ汁の椀を重ね、静かに立ち上がった。
「楽しみにしているわ」
北斗は皮肉だとは気づかず、満足そうに笑った。その背後で観月のスマートフォンが一度震え、新居候補の不動産会社から内覧日を知らせるメールが届いていた。




