第3話 車検代と青い痣
第3話 車検代と青い痣
木曜日の朝、観月は白いブラウスに濃紺のジャケットを重ね、寝室の鏡の前で髪を一つに束ねた。足元には七年前に買った黒いパンプスを置き、押し入れから仕事をしていた頃の革鞄を取り出した。鞄の中には家計簿、北斗の暴言を記録した記憶媒体、テープでつないだ千二百円のレシート、過去三年分の確定申告書の控えが入っている。
観月は個人事業主として毎年青色申告をしていた。株式の売買記録だけでなく、投資情報の分析業務で得た報酬や必要経費も帳簿へ記載し、税理士の確認を受けている。収入が北斗の扶養に入れる金額を大幅に超えているため、結婚した年から税法上の扶養にも健康保険の被扶養者にもなっていなかった。
それでも北斗は、観月を自分が養っていると言い続けていた。自宅の家賃と光熱費が北斗名義の口座から引き落とされていることだけが、彼の根拠だった。観月が生活費の不足分、自分の税金、健康保険料、年金、衣類、通院費をすべて自分で支払っていても、北斗は知ろうとしなかった。
食卓には、塩ザケと豆腐のみそ汁、昨夜の残りのカボチャの煮物が並んでいた。北斗は灰色のスーツを着たまま椅子へ座り、新聞を広げながらみそ汁をすすった。観月の革鞄に気づくと、椀を置いて目を細めた。
「今日は、ずいぶん立派な格好だな。どこへ行くんだ?」
「病院のあとに用事があるの」
「また税理士か? お前の小遣い稼ぎに、よく毎年付き合ってくれるよな」
「今日は税理士ではないわ。それに、小遣い稼ぎではなく仕事よ」
「家でパソコンを眺めているだけだろ。会社へ行って汗を流すのとは違う」
北斗は新聞をめくり、経済面に載っていた株価の記事を読んだ。専門用語の意味を観月へ尋ねることはあっても、教えられると機嫌を悪くする。以前、観月が青色申告について説明したときも、「税金を払っているくらいで偉そうにするな」と書類を押し返した。
「私が北斗の扶養に入っていないことは、知っているでしょう?」
「それが何だよ」
「健康保険料も年金も税金も、自分で払っているわ。生活費が足りない月も、私のお金から出している」
「でも、家賃を払っているのは俺だろ。電気もガスも水道も、俺の口座から落ちてる。だったら俺が養ってるんだよ」
「家賃は八万円、光熱費は月平均二万円くらいね。私は家事を全部して、足りない食費と日用品を負担しているわ」
「夫婦なのに、いちいち金に換算するなよ。お前は本当に細かい女だな」
観月は反論せず、冷め始めたカボチャを箸で半分に切った。北斗は妻が自分より多く稼いでいる可能性を、一度も考えたことがない。観月が稼ぐ金は「たまたま株で当たった金」、北斗の給料は「社会から認められた立派な収入」と、勝手に区別していた。
北斗が出勤したあと、観月は予約していた法律事務所を訪れた。受付には背の低い観葉植物が置かれ、棚には離婚、相続、借金についての冊子が並んでいる。出されたほうじ茶の紙コップを両手で持つと、冷えていた指先が少し温まった。
担当した相沢弁護士は、灰色のスーツを着た四十代の女性だった。相沢は観月が持参した家計簿と確定申告書を交互に確認した。証券口座から生活口座へ移した金額にも、黄色い付箋を貼っていく。
「観月さんは、ご主人の扶養には入っていないのですね」
「はい。税金も健康保険料も自分で払っています。それでも夫は、私を養っていると言います」
「ご主人は、観月さんの正確な収入をご存じですか?」
「知りません。毎年申告していることは知っていますが、帳簿も申告書も見ようとしませんでした。株で得たお金は仕事の収入ではないと決めつけています」
相沢は、観月が生活費として負担した金額を尋ねた。観月は月三万円では不足するため、毎月二万円から五万円ほど自分の口座から補っていると答えた。北斗の弁当や酒、クリーニング代も、その三万円の中から支払うよう命じられていた。
「つまり、ご主人は家賃と光熱費を負担し、観月さんは家事に加えて、食費や日用品の不足分を負担している。それなのに、ご主人は観月さんを一方的に扶養していると主張しているのですね」
「そうです。北斗の中では、外へ通勤する人だけが働いていることになるみたいです」
「これだけ記録がそろっていれば、実際のお金の流れは説明できます。資産の形成時期と原資を確認するため、口座の履歴も保管してください」
相談を終えた観月は、駅前の薬局で処方薬を受け取った。帰りに八百屋へ寄ると、葉つきの大根が一本九十八円で売られていた。革鞄と大根の入った袋を両手に持つ格好は少し不釣り合いだったが、観月は葉まで食べられる大根を選んだ。
その夜、観月は大根と鶏手羽元の煮物を作った。紺色のエプロンを着て、鍋の中の鶏肉へ何度も煮汁をかける。しょうゆとショウガの匂いが台所へ広がり、刻んだ大根の葉は油揚げと一緒にみそ汁へ入れた。
午後九時半、北斗が茶色のスーツに黒いコートを合わせて帰宅した。片手には仕事用の鞄、もう片方には自動車整備会社の封筒を持っている。靴を脱ぐなり、封筒を食卓へ投げた。
「車検の見積もりが来た。タイヤも替えなきゃならないらしい」
「いくらかかるの?」
「見れば分かるだろ」
観月が見積書を開くと、合計欄には二十六万八千円と記載されていた。北斗の車は結婚した翌年に買った外国製の中古車で、平日は駅までの往復にしか使っていない。買い物に使いたいと観月が頼んでも、荷物で車内が汚れると言って鍵を貸さなかった。
「来週までに払わなきゃならない。お前の貯金から五十万円出せ」
「車検代は二十七万円くらいでしょう。残りの二十三万円は何に使うの?」
「時計の支払いとカードの引き落としが重なってるんだよ。いちいち説明させるな」
「時計は北斗が自分で買ったものでしょう。車検代も自分で準備すると言っていたわ」
「夫が困っているんだから、妻が助けるのは当たり前だろ」
北斗はコートを椅子の背へ投げ、ネクタイを緩めた。観月は煮物の鍋を温め直し、食卓へ運んだ。煮汁の表面で大根が揺れ、湯気と一緒にショウガの匂いが立った。
「私の口座からは出さないわ」
「どうしてだよ。結婚するとき、貯金があると言ってただろ」
「そのお金は、結婚前から運用してきた資金よ。それに、毎月の生活費の不足分も私が出しているわ」
「たかが食費だろ。こっちは家賃を払って、お前を住ませてやってるんだぞ」
「私は北斗の扶養にも入っていない。税金も保険料も年金も自分で払っているわ。それなのに、どうして養っていると言えるの?」
北斗は鼻で笑い、煮物の大根へ箸を刺した。熱かったのか、一度皿へ戻して水を飲む。観月が差し出した確定申告書を見ようとしなかった日のことなど、覚えてもいない顔だった。
「扶養に入ってるかどうかなんて、役所の書類の話だろ。俺の家に住んで、俺が払った電気を使ってるんだから、俺が養ってるんだよ」
「では、私が作る食事や洗濯や掃除は、何の負担にもならないの?」
「女が家事をするのは普通だろ。それを仕事みたいに言うな」
「北斗は毎朝、私が買った食材で朝食を食べ、私が作った弁当を持って出勤しているわ。今食べている大根も鶏肉も、私のお金で買ったのよ」
北斗は箸を止めた。しかし礼を言う代わりに、みそ汁の椀を乱暴に置いた。汁が食卓へこぼれ、大根の葉が一切れ、木目の上へ落ちた。
「恩着せがましいんだよ。夫婦なんだから、それくらい出して当然だろ」
「それなら、夫婦だから私があなたの車検代を出すべきだという話と矛盾するわ。私のお金だけ夫婦のもので、北斗の給料は北斗だけのものなの?」
「屁理屈を言うな!」
食卓に置かれた北斗のスマートフォンが鳴った。画面には「母さん」と表示されている。北斗はすぐに電話へ出ると、観月が車検代を出さないと訴えた。
北斗は、十八万円のゴルフクラブを買ったことも、時計に毎月四万円を払っていることも話さなかった。観月が扶養に入っておらず、自分の収入で税金や保険料を負担していることも伏せた。都合の悪い数字を隠し、「専業主婦の妻が夫を助けない」という部分だけを義母へ聞かせた。
「母さんが代われってさ」
「今は食事中よ。また今度にするわ」
「逃げるなよ。話せ」
北斗は通話をスピーカーへ切り替えた。義母の甲高い声が、換気扇の低い音を押しのけて台所へ響く。観月はエプロンのポケットに入れていた録音機が動いていることを確かめた。
「観月さん、北斗が困っているんでしょう? どうして五十万円くらい出してあげないの?」
「車検代だけなら二十七万円です。残りは北斗が買った時計と、個人的なカードの支払いだそうです」
「男には付き合いがあるのよ。家にいる女とは違うの」
「私も仕事をしています。毎年青色申告をして、税金も自分で納めています」
「パソコンで株を買ったり売ったりしているだけでしょう? そんなもの、仕事とは言わないわよ」
北斗が隣で笑った。親子が同じ言葉を使う理由を、観月はようやく理解した。二人にとって仕事とは、スーツを着て外へ出ることであり、家で得た収入は金額がいくら多くても遊びだった。
「息子に養ってもらっているのに、車検代も出さないの? 子どもも産まない、金も出さないじゃ、何のためのお嫁さんなの」
「私は北斗の扶養には入っていません。生活費の不足分も、自分で払っています」
「家に置いてもらっているじゃない。細かいことを言って、かわいげのない人ね」
「では、お義母さんは北斗の時計代と車検代を払えますか?」
電話の向こうが静かになった。北斗は観月をにらみ、通話を切った。食卓の上では、温め直したみそ汁から湯気が消えかけていた。
「母さんに失礼なことを言うな」
「私は、北斗が私に求めたことを尋ねただけよ」
「お前の貯金の話をしてるんだ。通帳を持ってこい」
「持ってこないわ」
「五十万円を出せば済む話だろ!」
北斗は椅子から立ち上がり、観月へ近づいた。観月が後ろへ下がると、背中が廊下の壁へ触れた。北斗は観月の左上腕をつかみ、親指を内側へ強く食い込ませた。
「痛い。離して」
「通帳を出すと言えば離してやる」
「出さないわ。北斗、手を離して」
観月が腕を引いた瞬間、北斗は前へ押した。観月の肩と背中が壁へぶつかり、飾ってあった小さな時計が床へ落ちた。透明なカバーが割れ、乾電池が玄関まで転がっていった。
北斗は手を離したが、謝らなかった。割れた時計を見下ろし、観月が抵抗するから壊れたのだと言った。それから食卓へ戻り、冷めたみそ汁を飲んだ。
「何だよ。味が濃すぎるぞ」
観月は左腕を右手で押さえ、床へ落ちた時計を見た。電池はまだ玄関の隅で回り、やがて靴べらの横で止まった。北斗は何事もなかったように煮物を食べ、大根は柔らかくてうまいと言った。
翌朝、観月の上腕には指の形に近い青紫色の痣が残っていた。白いシャツの袖を通すだけで鈍い痛みが走り、背中も重かった。観月は朝食に納豆ご飯と昨日のみそ汁を出したが、自分はほとんど箸をつけられなかった。
「昨日のことで病院へ行くのか?」
「腕と背中を診てもらうわ」
「あれくらいで大げさだな。転んだと言えよ」
「私は転んでいない。北斗につかまれて、壁へ押されたの」
「夫婦げんかを外へ持ち出すな。俺の立場が悪くなるだろ」
「私の腕より、自分の立場が心配なのね」
北斗は返事をせず、観月が作った弁当を持って出勤した。玄関には昨夜割れた時計が落ちたままで、北斗の靴が透明な破片のすぐ横を通った。扉が閉まると、観月は日付を表示したタブレットと一緒に、痣と割れた時計を撮影した。
病院では、女性医師が痣の大きさを測り、背中も確認した。観月は昨夜の出来事を順番に説明し、診断書を依頼した。医師から危険を感じたら警察へ連絡するよう言われると、観月は白いシャツのボタンを一つずつ留めながらうなずいた。
病院を出たあと、観月は相沢弁護士の事務所を訪れた。診断書、痣の写真、昨夜の録音を確認した相沢は、すぐに家を出る準備を始めるよう勧めた。観月は紙コップの水を右手で持ち、必要なものを手帳へ書き留めた。
「身分証明書、通帳、印鑑、健康保険関係の書類を確保してください。確定申告書、帳簿、証券口座の履歴も、ご主人に見つからない場所へ移しましょう」
「青色申告の帳簿は、十年近く残しています。取引記録も、結婚前の口座から追えるようにしてあります」
「それは大切な資料です。観月さんの資産がどのように形成されたかを説明できます。ご主人が無断で触れられないよう、先に移してください」
帰宅した観月は、紺色のエプロンを着て夕食の支度を始めた。アジの開きを魚焼きグリルへ入れ、ジャガイモとワカメのみそ汁を作る。魚の皮が焼ける匂いが台所へ広がる間に、押し入れから帳簿と申告書を取り出した。
書類は年度ごとにファイルへ分けてある。結婚前の元本、運用による収入、納付した税金、自分で支払った保険料、生活費として立て替えた金額まで記録されていた。北斗が妻を養っているという話は、この書類のどこにも存在しなかった。
観月は重要書類を革鞄へ入れ、翌朝、銀行の貸金庫へ移すことにした。パソコンのデータも複製し、北斗が知らない場所へ保存する。作業を終えると、グリルの中でアジの尾が少し焦げていた。
午後八時、北斗は帰宅し、当たり前のように食卓へ座った。観月の腕に青い痣があることを知りながら、昨日のことには一言も触れなかった。アジへ大根おろしを載せ、みそ汁を飲むと、今日はちょうどいい味だと言った。
北斗は、妻が何もできないと思い込んでいる。扶養にも入っていない観月を養っていると信じ、毎年申告している収入を小遣いと呼び、妻の財産まで自分が使えると考えていた。その思い込みが崩れる日を、北斗はまだ想像していなかった。
観月はアジの骨を皿の端へよけ、白い身を一口食べた。焦げた皮の苦みと大根おろしの辛さが舌へ残った。北斗が冷めたみそ汁を飲み干す向かい側で、観月は家を出る日までに必要な手続きを、一つずつ数えていた。




