第2話 千二百円の下着
第2話 千二百円の下着
土曜日の朝、観月は洗濯機が止まるのを待ちながら、台所のごみをまとめていた。着ているのは、袖口が少し伸びた薄桃色のカットソーと、三年前に買った灰色のスウェットパンツだった。窓の外では昨夜からの雨がベランダの手すりを濡らし、部屋にはトーストの焦げた匂いと、部屋干し用洗剤の甘い香りが残っていた。
観月は冷蔵庫の横に置いた小さなごみ箱から、丸めたレシートを拾い上げた。昨日、駅前の衣料品店で下着を買ったときのものである。白い綿の下着が二枚組で千二百円になっていたため、自分の口座から現金を下ろして購入した。五年も使って生地が薄くなったものを捨てたかっただけで、ぜいたくをしたつもりはなかった。
玄関から足音が聞こえ、北斗が寝癖のついた髪をかきながら台所へ入ってきた。黒いTシャツに紺色のジャージを着ており、右手には昨夜飲んだ缶ビールの空き缶を持っている。北斗は空き缶をごみ箱へ落とそうとしたところで、観月の手元を見た。
「何を隠した?」
「隠していないわ。昨日のレシートよ」
「見せろよ。俺の金で何を買ったんだ?」
北斗は観月の返事を待たず、指の間からレシートを抜き取った。細長い紙を開き、商品名と金額を上から下まで目で追う。やがて「婦人肌着二枚組・千二百円」という印字を見つけると、口元をゆがめた。
「下着に千二百円? この前、金がないって言ってたよな」
「生活費からは出していないわ。私のお金で買ったの」
「お前のお金って何だよ。働いてもいないくせに」
「結婚前から持っているお金よ。自分の下着だから、そこから払ったの」
北斗は鼻で笑い、レシートを食卓へ放った。テーブルには、観月が焼いた六枚切りのトーストと、二人で一個を分けたスクランブルエッグが並んでいた。北斗は自分の皿に載った卵の量を確かめ、観月の皿より多いと分かると何も言わずにケチャップをかけた。
「夫に黙って買い物をすることが問題なんだよ」
「下着を買うたびに、許可をもらわなければいけないの?」
「そういう口の利き方をするな。俺が家賃も光熱費も払っているんだから、家の金について決めるのは俺だ」
「私が結婚前に貯めたお金まで、北斗が決めるの?」
北斗の眉が上がった。観月はそれ以上言葉を重ねず、冷めかけた紅茶へ牛乳を少し注いだ。牛乳は残り少なく、紙パックを振ると軽い音がした。
北斗はレシートを両手でつかみ、観月の目の前で二つに裂いた。さらに四つ、八つと細かく破り、スクランブルエッグの横へ落とす。白い紙片に赤いケチャップがつき、千二百円の数字が途中で切れていた。
「自分の立場を忘れるなよ。養われている人間が、勝手に金を使うな」
「その下着は、五年使ったものの買い替えよ」
「まだ穿けるだろ。誰に見せるわけでもないんだから」
北斗はそう言ってトーストをかじった。パンの耳を皿へ残し、冷蔵庫からヨーグルトを取り出す。観月が一週間分として買った四個入りの最後の一個だったが、北斗は賞味期限だけを確かめて蓋を開けた。
観月はケチャップのついた紙片を一枚ずつ拾い、流しの横へ置いた。北斗は、その手元を見て笑った。観月が何も捨てられない貧乏性だから、破れたレシートまで集めていると思ったのだろう。
「そんなごみ、取っておいてどうするんだよ」
「あとで捨てるわ」
「朝飯を食ったら、俺の白いポロシャツを洗っておけよ。午後から出かけるから」
「ゴルフの練習?」
「会社の付き合いだ。係長になると、休日も遊んでばかりはいられないんだよ」
北斗は食べ終えた皿をその場へ残し、リビングへ戻った。観月は皿を重ね、食べ残されたパンの耳を小皿へ移した。捨てずに冷凍しておけば、砂糖とバターで焼いて自分のおやつにできる。
午後になると雨が上がり、雲の隙間から白い光が差し込んだ。観月は北斗に言われた白いポロシャツへアイロンをかけ、襟の内側についた薄い黄ばみを漂白剤で落とした。北斗は玄関の鏡の前で髪にワックスをつけ、観月が買ったばかりの下着には千二百円も出せないと言った口で、新しいゴルフ用の手袋が欲しいと独り言を言っていた。
「夕食はどうするの?」
「外で食うかもしれない。俺が帰るまで起きてろよ」
「食べるかどうかだけ、連絡してくれる?」
「だから、付き合いなんだから予定なんか分からないんだよ。適当に何か作っておけ」
北斗は香水を首筋へ吹きつけた。柑橘と香辛料の強い匂いが玄関に広がり、観月は一歩後ろへ下がった。北斗が出ていったあとも匂いはしばらく消えず、下駄箱の上に置いた消臭剤の香りと混ざっていた。
観月は夕食にサバのみそ煮を作った。北斗が帰宅してもすぐ食べられるよう鍋へ入れ、付け合わせには小松菜のおひたしを用意した。しかし午後九時になっても連絡はなく、観月は一人で冷めたみそ汁と、小さなサバの切り身を食べた。
北斗が帰宅したのは、午後十時半だった。酒の匂いはしなかったが、両腕で細長い黒色の箱を大切そうに抱えている。箱には有名なゴルフ用品メーカーの銀色の文字が印刷されていた。
「ただいま。そこ、片づけろ。傷がついたら困る」
「ゴルフクラブを買ったの?」
「見れば分かるだろ。限定モデルなんだぞ」
北斗は食卓に置いてあった鍋敷きとしょうゆ差しを手で端へ寄せ、黒い箱を載せた。新品のクラブを包んでいた薄紙を外すと、金属と樹脂の新しい匂いが漂った。北斗は照明へ向けてヘッドを何度も傾け、光沢を確かめている。
「会社の人からもらったの?」
「買ったに決まってるだろ。十八万だったけど、これなら安いほうだ」
観月は流しに置いたスポンジを握ったまま、北斗の顔を見た。蛇口から落ちた水滴が、ステンレスの底へ一定の間隔で当たっている。朝、千二百円の下着を無駄遣いだと責めた人が、同じ日にその百五十倍の品物を買ってきたのだ。
「十八万円も、どこから出したの?」
「俺の給料からだよ。俺が稼いだ金で俺が何を買おうが、俺の勝手だろ」
「家計には余裕がないのよ。お米もなくなるし、今月の生活費は二千円しか残っていないって話したでしょう」
「米なんか安いものを買えばいい。うどんでも食ってろよ」
「北斗も食べるのよ」
「俺は昼も夜も外で食えるからな。困るのはお前だけだろ」
北斗はクラブを握り、リビングで軽く振る動作をした。風を切る音が観月の頬の近くを通り、食器棚のガラス戸がかすかに揺れた。観月が危ないと注意すると、北斗は大げさに避けるなと笑った。
そのとき、北斗が脱いだジャケットの内ポケットから一枚の封筒が落ちた。観月が拾うと、高級腕時計店の名前が書かれている。北斗は慌てて取り返そうとしたが、封筒から支払い予定表が滑り、床へ広がった。
「この四万円というのは何?」
「時計の分割払いだよ。前から持ってる時計があるだろ」
「毎月四万円を払っているの?」
「あと一年半くらいだ。いい時計は資産になるんだよ。お前には分からないだろうけどな」
観月は北斗の左腕を見た。銀色の腕時計は、結婚三年目に突然増えていた。会社で必要だから買ったとしか聞いておらず、値段を尋ねると男の持ち物に口を出すなと怒鳴られた。
「時計に毎月四万円、今日はゴルフクラブに十八万円。それで、二人分の生活費は三万円なのね」
「俺の時計やクラブは仕事に必要なんだよ。お前の下着と一緒にするな」
「ゴルフクラブがないと、仕事ができないの?」
「人脈を作るのも仕事だ。家にいるだけの女には理解できないんだよ」
北斗は支払い予定表をつかみ、ジャケットへ押し込んだ。そのまま風呂場へ向かい、湯を張っておかなかった観月を責め始めた。観月はサバのみそ煮を温めるか尋ねたが、北斗は外でステーキを食べたからいらないと答えた。
翌日、観月は近所のスーパーへ行った。生成り色のブラウスに黒いカーディガンを重ね、使い込んだ布製の買い物袋を持っていた。五キロの米、しょうゆ、みそ、卵、牛乳をかごへ入れると、合計は三千八百七十六円になった。
生活費の残りでは足りなかったため、観月は自分の財布から支払った。帰宅すると買った品物を並べ、レシートを家計簿へ貼りつける。赤いペンで「立て替え」と書き、三千八百七十六円という数字を二重線で囲んだ。
日曜日の夕食は、油揚げとニンジンの炊き込みご飯だった。北斗は味が薄いとめんつゆをかけ、テレビでゴルフ番組を見ながら二杯おかわりした。観月が立て替えた食材で作った料理だが、北斗は米を買った金がどこから出たのか尋ねなかった。
月曜日の朝、海外市場の急落を受け、ニュース番組では株価の大幅な下落が繰り返し報じられていた。北斗は紺色のスーツを着て、炊き込みご飯のおにぎりを二個持って出勤した。玄関で革靴を履きながら、テレビに映った赤い数字を見て笑った。
「株なんてやるから損するんだよ。真面目に働くのが一番だな」
「そうかもしれないわね」
「お前もニュースくらい見て、少しは社会の勉強をしろよ」
北斗が出ていくと、観月は食器を洗い、ベランダへ洗濯物を干した。北斗の白いワイシャツが風に揺れ、その隣で観月の古い靴下が小さく回った。部屋へ戻った観月はアイスコーヒーを作り、自室の三台のモニターを起動した。
午前九時、東京市場は大量の売り注文で始まった。どの銘柄も赤い数字を並べ、値下がり率の一覧が目まぐるしく更新されている。観月は最初の三十分、一度も注文を出さなかった。
「落ちている途中のナイフは、つかまない」
観月は買い注文と売り注文の厚さを見比べ、出来高の増え方を確認した。急落した銘柄の中には業績と関係なく売られている会社もあったが、安くなったという理由だけでは買わない。売りが一巡し、何度売られても同じ価格で買い支えられている銘柄だけを監視した。
午前十時を過ぎると、一つの銘柄が安値を切り上げ始めた。観月は予定していた資金の三分の一を入れ、さらに下がれば損切りできるよう逆指値を設定した。上昇を確認して二度に分けて買い増し、売買板の勢いが弱くなるたびに少しずつ利益を確定した。
昼前には相場全体も下げ幅を縮めていた。観月は最後まで残していた株を売り、取引画面から手を離した。確定利益は二百八十一万四千円だった。
派手に喜ぶことはしなかった。机の上に置いた冷たいコーヒーを飲み、約定履歴と取引理由を記録する。勝った日の記録より、負けた日の記録を詳しく残すことが、長く市場にいるための習慣だった。
観月はパソコンを一台だけ残し、モニターの画面を消した。それから引き出しを開け、北斗に破られた下着のレシートを取り出す。ケチャップの染みは乾き、紙の端が赤茶色に固まっていた。
透明なテープを切り、八つに裂かれた紙片を一枚ずつつなぎ合わせた。印字された千二百円の数字が元に戻ると、観月はレシートを透明な袋へ入れた。表には「四月二十二日・私物購入への干渉」と書き、北斗の発言を記録した紙も添えた。
二百八十一万円の利益が出た日でも、観月が証拠として残したのは、千二百円のレシートだった。金額の大小が問題なのではない。北斗が妻の持ち物も金も、自分の許可がなければ使えないものとして扱ったことが問題だった。
午後三時、観月のスマートフォンへ弁護士事務所から確認の電話がかかってきた。先日申し込んだ離婚相談は、木曜日の午前十時に決まった。観月は手帳に時間を書き、必要な書類について質問した。
「家計簿と録音、それから病院へ通ったときの領収書も持参したほうがいいでしょうか。夫から渡される生活費と、実際に必要だった金額の違いもまとめてあります」
電話を切ったあと、観月は夕食用の米を研いだ。水が白く濁り、指先へ米粒が当たった。今夜のおかずは、安売りで買った鶏むね肉とモヤシの炒め物にするつもりだった。
市場では、含み損を抱えたまま祈っていても、株価は都合よく戻ってくれない。損失が広がる前に手放し、残った資金を次の機会へ回さなければならない。観月は水を切った米を炊飯器へ入れ、予約ボタンを押した。
北斗との結婚生活も、祈って待つだけでは元に戻らない。五年間で傷んだものを、観月一人の努力だけで修復することはできなかった。北斗が帰宅するまでに、観月は弁護士へ見せる資料を古い紙袋へまとめた。
その一番上には、テープでつないだ千二百円のレシートを置いた。十八万円のゴルフクラブより小さな紙だったが、北斗が何を大切にし、何を踏みにじったのかを十分に示していた。観月は紙袋の口を閉じ、自室の鍵つきの棚へしまった。
この結婚を手放すことは、負けではない。これ以上、自分の時間と尊厳を失わないための損切りだった。




