第1話 三万円で養っている夫
第1話 三万円で養っている夫
午後七時を過ぎても、北斗から帰宅の連絡はなかった。観月は紺色の長袖シャツにベージュのエプロンを重ね、台所で焼き上がったハンバーグを皿へ移した。つけ合わせは、半分残しておいたニンジンのグラッセと、特売で買ったジャガイモの粉ふき芋である。鍋にはタマネギとキャベツのコンソメスープがあり、湯気と一緒に甘い匂いが立っていた。
壁の時計が七時半を指したところで、玄関の鍵が乱暴に回った。北斗はグレーのスーツを着たままリビングへ入り、ネクタイを緩めながら鞄をソファへ放り投げた。磨かれた革靴には雨粒がついていたが、玄関マットで拭こうともしない。
「遅くなるなら、連絡してくれればよかったのに。ハンバーグ、温め直すわね」
「いちいち連絡なんかできるか。こっちは仕事をしてるんだぞ。家で暇にしているお前とは違うんだよ」
観月は口を閉じ、冷めたハンバーグを電子レンジへ入れた。回転皿が低い音を立てて回る間、北斗は冷蔵庫から缶ビールを取り出した。観月が今月買った六本のうち、これが最後の一本だった。
北斗は食卓へ座ると、観月が料理を並べ終えるのを待たずにビールを開けた。炭酸の抜ける音がして、細かな泡が缶の縁からこぼれた。北斗は袖口についた泡を舐め、スマートフォンを見ながらハンバーグを一口食べた。
「何だよ、これ。味が薄いぞ」
「お醤油なら、そこにあるわ」
「醤油をかけなきゃ食えない料理を出すなよ。前にも言っただろ。俺は濃い味が好きなんだ」
観月も向かい側へ座ったが、自分の皿には小さなハンバーグしか載せていなかった。挽き肉が値上がりしていたため、北斗の分を大きくすると二つ同じ大きさには作れなかったのだ。昼食に食べたのは、昨日の冷や飯を卵と炒めたものだった。
「ごめんなさい。今月は調味料もあまり買い足せなくて」
「また金の話かよ」
「残っている生活費が、二千百八十円なの。給料日まで、あと九日あるでしょう。お米も今週でなくなると思う」
北斗は箸を置いた。テーブルの上で木の箸が転がり、観月の皿へ当たった。コンソメスープの表面には薄い油の輪が浮かび、さっきまで立っていた湯気はもう消えていた。
「三万円も渡しているのに、まだ足りないのか?」
「二人分の食費だけじゃないのよ。洗剤もトイレットペーパーも、その中から買っているでしょう。北斗のワイシャツをクリーニングに出したから、今月は四千八百円かかっているの」
「そんなもの、家で洗えばいいだろ」
「襟の黄ばみが落ちないから、取引先へ着ていく三枚だけ出してほしいって、北斗が言ったのよ」
「俺のせいにするな!」
北斗の声に驚き、観月の手からスプーンが滑った。金属の音が床へ響くと、隣の部屋で動いていた洗濯機の音まで一瞬止まったように感じられた。観月は椅子を引き、スプーンを拾って流しへ置いた。
「家計簿をつけてあるから、一度見て。無駄なものがあるなら、私も考えるわ」
観月は食器棚の引き出しから、花柄の表紙がついた大学ノートを取り出した。スーパーのレシートを日付順に貼り、食費、日用品、医療費を色の違うペンで分けてある。見開きの端には、北斗が好んで飲むビールや、毎朝食べるヨーグルトの金額まで記入していた。
「ほら、今月の食費は一万六千四百二十円。日用品が五千八百六十円で、クリーニング代が四千八百円。私の通院日の電車代と薬代を足すと――」
「うるさいな。そんな貧乏くさい帳面を食事中に広げるなよ」
北斗は家計簿を手の甲で押し返した。ノートの角がスープ皿へ触れ、表紙に薄茶色の染みが広がった。観月が慌てて布巾で押さえても、紙へ染み込んだ跡は消えなかった。
「でも、見てもらわないと、三万円では足りないことが分からないでしょう?」
「足りないんじゃない。お前のやりくりが下手なんだよ。うちの母親は、親父の安月給でも文句一つ言わずに家族四人を食わせてたぞ」
「それは三十年くらい前の話でしょう。今のお米や野菜の値段とは違うわ」
「言い訳だけは一人前だな」
北斗は鼻で笑い、残っていたビールを飲み干した。食卓の下には、昨日届いたゴルフ用品店の紙袋が置かれている。中には一万二千円のポロシャツが入っていたが、北斗はそれを無駄遣いとは考えていなかった。
「だいたい、お前は朝から晩まで何をしてるんだ? 掃除して、飯を作って、あとは昼寝だろ。三食昼寝付きで男に食わせてもらえるんだから、女は気楽でいいよな」
「昼寝はしていないわ」
「はいはい。誰も見てないんだから、何とでも言えるよな」
北斗は粉ふき芋を口へ放り込み、よく噛まずに飲み込んだ。観月は膝の上で両手を重ね、右手の親指で左手の爪をなぞった。結婚したばかりの頃、北斗はこのハンバーグを食べて「店よりうまい」と笑っていたが、その話をしても、今の彼は覚えていないと言うだろう。
「専業主婦なんて、社会の寄生虫だろ。俺が毎日働いてやってるから、お前は飯を食えるんだ。養ってもらっているだけ、ありがたいと思えよ」
観月は北斗の顔を見た。頬は酒で赤くなり、口元にはソースがついている。その背後の棚には、観月が朝からアイロンをかけたワイシャツが五枚、しわ一つなく並んでいた。
「そう。北斗は、私を養っていると思っているのね」
「思っているんじゃない。事実だろ」
「分かったわ。覚えておく」
「何だよ、その言い方。文句があるなら働けばいいだろ。お前なんか、パートの面接にも受からないだろうけどな」
北斗はハンバーグを半分残し、椅子から立ち上がった。風呂を沸かしておけと言い残し、ソファへ寝転んで動画を見始める。観月は返事をせず、残された皿を台所へ運んだ。
捨てるのはもったいなかったため、北斗が残したハンバーグを小さな保存容器へ入れた。明日の昼にパンへ挟めば、一食分になる。冷蔵庫には卵が二個、納豆が一パック、しなびかけた小松菜が半束残っていた。
観月が食器を洗っている間、北斗の笑い声がリビングから何度も聞こえた。蛇口から出る湯は、油のついた皿へ当たって白く濁った。ハンバーグの匂いに食器用洗剤の柑橘の香りが混ざり、観月は一度だけ窓を細く開けた。
午後十一時を過ぎると、北斗は先に寝室へ入った。観月は脱ぎ散らかされた靴下を拾い、明日のごみ出しに備えて台所の袋を縛った。それから自分の部屋へ入り、白いカーディガンを肩へ羽織った。
机の本棚には、料理の本と簿記の参考書が並んでいた。そのうち一冊を手前へ引くと、背後に置いていた小型録音機が現れた。観月は停止ボタンを押し、音声をパソコンへ移した。
ファイル名は「四月十八日・生活費・寄生虫発言」。同じフォルダーには、「三月二日・通院費拒否」「三月十九日・夕食への暴言」「四月七日・無断で私物を処分」という記録が並んでいる。観月は今日の家計簿も撮影し、スープの染みがついたページを保存した。
翌朝、昨夜の雨は上がっていた。観月は白いブラウスに黒いパンツを着替え、北斗の朝食としてトーストと目玉焼きを用意した。パンの端が少し焦げると、北斗は不機嫌そうにナイフで削り落とした。
「今夜は飲んで帰るから、飯はいらない」
「分かったわ。帰る時間は?」
「いちいち聞くなよ。俺は小学生じゃないんだ」
北斗はコーヒーを飲み干し、観月が差し出した弁当を受け取った。中身は昨夜取り分けておいた小さなハンバーグと卵焼き、冷凍のブロッコリーだった。玄関で革靴を履くと、北斗は観月を振り返りもせずに出ていった。
ドアが閉まってから、観月は三十秒ほど動かなかった。廊下を進む北斗の足音が消えるのを待ち、チェーンをかける。飲み残されたコーヒーの匂いが漂う中、観月は食卓のパンくずを布巾で集めた。
洗濯機を回し、ベランダへ北斗のワイシャツを干してから、自室へ戻る。厚手のカーテンを閉めると、部屋は夜のように暗くなった。観月が机の下の電源を入れると、三台のモニターが順番に青白く光った。
中央の画面には株価チャート、右には売買板、左にはニュースと保有銘柄の一覧が表示されている。観月は眼鏡をかけ、昨夜のうちに用意しておいた銘柄リストを確認した。机の端には、欠けた猫の絵柄のマグカップと、北斗が見ようともしなかった家計簿が置かれていた。
午前九時、取引が始まった。買い注文が殺到した銘柄の株価が一気に跳ね上がったが、観月はすぐには注文を出さなかった。売買板に並んだ大口注文が何度も消え、出来高だけが不自然に膨らんでいたからだ。
「これは追いかけない。最初に買った人たちの売り場になるわ」
観月は独り言を口にし、別の銘柄へ視線を移した。好決算を発表した会社の株価が、利益確定売りで一度下がっている。売り注文を吸収したあとも安値を割らず、買い板が少しずつ厚くなっていた。
観月は一度に全額を入れず、三回に分けて買った。値上がりしても欲張らず、決めていた価格へ到達したところで半分を売る。残りも売買の勢いが弱まった瞬間に手放した。
午前十一時半、前場が終了した。観月は椅子の背もたれへ体を預け、冷めた麦茶を飲んだ。確定損益の欄には「プラス八十五万二千六百円」と表示されていた。
北斗から渡される生活費の二十八か月分を、観月は午前中だけで稼いでいた。それでも胸が弾むことはなく、もう一度取引履歴を確認してから画面を保存した。証券口座の預かり資産は、九千百万円を超えている。
この資金の元になったのは、観月が結婚前に働いて貯めた金と、祖母から相続した株だった。結婚後も生活費とは混ぜず、取引履歴も税金の書類もすべて残している。北斗には何度か仕事の話をしようとしたが、「女が株なんかやれば、全部溶かす」と笑われたため、それ以上説明しなかった。
観月はモニターの端に映る自分の顔を見た。白いブラウスの襟はきちんと整っていたが、目の下には薄い影があった。昨夜録音した北斗の声が、まだ耳の奥に残っている。
「俺が養ってやっている」
観月はその言葉を小さく繰り返し、暴言記録のフォルダーを開いた。証券口座の残高よりも、こちらの記録を確かめる時間のほうが長かった。離婚専門の弁護士事務所の連絡先は、すでに手帳へ書き写してある。
昼食には、北斗が残したハンバーグを六枚切りの食パンへ挟んだ。ソースがパンへ染み込み、端から少しこぼれた。観月は皿の下へ家計簿を置かないよう気をつけながら、一口ずつゆっくり食べた。
食べ終えると、観月はスマートフォンを手に取った。予約画面へ名前と連絡先を入力し、相談内容の欄に「経済的な支配、継続的な暴言、離婚について」と記した。送信ボタンの上で指が一度止まったが、台所に残されたスープの染みを思い出し、そのまま押した。
北斗は、自分が三万円で妻を養っていると思っている。観月は今日まで、その思い込みを訂正しなかった。しかし、黙っていたことと、何もしていなかったことは同じではない。
午後の取引開始を知らせる数字が、モニターの上で動き出した。観月は猫のマグカップへ新しいコーヒーを注ぎ、弁護士事務所から届いた予約確定メールを保存した。
結婚生活を終わらせるための最初の注文は、もう約定していた。




