知らない妻の年収
知らない妻の年収
正志は旅行鞄を持ち上げたものの、まだ玄関へ向かわなかった。食卓には冷めたナメコのみそ汁、端が乾いた卵焼き、北斗が残した炊き込みご飯が並んでいる。澄江は食器を重ねようとしたが、正志の顔を見て手を止めた。
北斗は紺色の部屋着を着たまま椅子へ座り、観月を養っているのは自分だと繰り返していた。家賃と公共料金を毎月支払い、妻には三万円もの生活費を渡している。その自分が責められる理由はないと、腕を組んで正志を見上げた。
「お義父さんは、娘の話しか聞いていないから分からないんですよ。俺は毎朝会社へ行って、家賃も電気代も払っているんです」
「観月も働いている」
「株を買ったり売ったりしているだけでしょう。会社勤めとは違いますよ」
「君は、観月の年収を知っているのか?」
北斗は一瞬、口を閉じた。観月は薄いベージュのカーディガンの袖を下ろし、左腕の痣を隠した。澄江は冷めたみそ汁を流しへ運ばず、椀を持ったまま娘の横へ立っていた。
「知る必要がありますか? 夫婦でも財布は別ですから」
「妻の収入も知らずに、なぜ自分が養っていると言い切れる?」
「毎月申告だか何だかをしているのは知っていますよ。でも、どうせ百万円か二百万円でしょう。家でパソコンを触って、その程度稼いだからって、俺の給料とは比べられません」
「観月は毎年、確定申告をしている。税金も健康保険料も、自分で払っている。それでも百万円か二百万円だと思うのか?」
「数字をごまかして、経費で落としてるんじゃないですか。自営業なんて、みんなそんなものでしょう」
観月は小さく息を吐いた。北斗は妻の申告書を一度も見たことがない。税理士から届いた封筒が食卓に置かれていたときも、面倒な紙を目につく場所へ置くなと言って床へ落とした。
正志はジャケットの内ポケットから眼鏡を出し、ゆっくりとかけた。怒ったときほど声を低くするのは、観月が子どもの頃から変わらない。澄江は夫を止めず、北斗が次に何を言うのか待っていた。
「観月が結婚前、何の仕事をしていたか知っているか?」
「証券会社でしょう。体を壊して辞めたと聞いていますよ」
「どの部署にいたのかは?」
「そこまで知りません。昔の仕事なんか、結婚生活には関係ないでしょう」
「観月は証券会社のシステム部門で、市場の注文を扱う仕事をしていた。退職してからも勉強を続け、自分の資金を運用してきた。遊びで画面を眺めているわけではない」
北斗は鼻で笑った。食卓に置いたスマートフォンを取り、自分の証券口座を開く。交流サイトで勧められた小型株には含み益が出ており、その数字を正志へ向けた。
「俺だって株を始めて、もう二十五万円も増やしてますよ。投資なんて、特別な仕事じゃありません。上がる株を買えばいいだけです」
「その利益は、もう確定したのか?」
「今売ったら、これから上がる分を取り損なうでしょう」
「では、まだ君の金ではないな」
「時間の問題ですよ。俺には銘柄を見る力がありますから」
北斗は得意そうに画面を更新した。ところが、さきほどまで二十五万円あった含み益は二十一万円へ減っている。北斗は通信状態が悪いと言い、もう一度画面を指で引いた。
正志は北斗の口座へ興味を示さなかった。代わりに観月の机へ視線を向けた。三台のモニターは消えていたが、横の棚には企業の決算資料、投資関係の専門書、年度別に整理された帳簿が並んでいる。
「北斗君。投資を始めるとき、観月に教えてもらおうとは思わなかったのか?」
「どうして俺が妻に教わるんです?」
「観月のほうが経験が長いからだ」
「長くやっているから上手とは限らないでしょう。女は怖がって、すぐ売るから大きく儲けられないんですよ」
「観月の取引を見たことがあるのか?」
「ありませんよ。夫婦でも仕事には口を出さない主義なので」
「口を出さないのではない。知ろうともしなかったんだろう」
北斗は顔をしかめ、観月をにらんだ。正志が妻の肩を持つのは、観月が都合のよい話だけをしたからだと決めつけている。自分が観月の腕をつかんだことも、彩香とホテルへ行ったことも、原因は妻の態度にあると考えていた。
「観月、お前の年収はいくらなんだよ」
「今まで何度か話そうとしたわ」
「聞いてやるから、今言えよ」
「聞いてやる?」
観月は北斗の言葉を繰り返した。食卓の隅では、食べかけの卵焼きから水分が抜け、黄色い断面が乾いている。観月はそれを保存容器へ入れようとしたが、正志が先に皿を引き寄せた。
「観月、答えなくていい」
「どうしてですか? お義父さんが年収の話を始めたんでしょう」
「妻に『聞いてやる』という態度の人間へ、観月が大切な情報を渡す必要はない」
「夫婦なら、収入を教えるのが普通じゃないんですか?」
「君は自分の給料の使い道を、観月にすべて教えたのか?」
「給料明細は見せていますよ」
「時計に毎月四万円払っていることは?」
北斗は左腕を引き、銀色の腕時計を袖口へ隠した。正志はさらに、十八万円のゴルフクラブやカードローンについて尋ねた。北斗は自分で稼いだ金だから説明する義務はないと答えた。
「君の金は君だけのもの。しかし観月の金は、車検や時計のために差し出して当然なのか」
「夫婦なら助け合うものだと言ってるんです」
「観月が生活費に困ったとき、君は助けなかった。三万円で足りないなら、やりくりが下手だと責めたそうじゃないか」
「家賃は俺が払っています!」
「では、もう一度聞く。観月の年収を知らず、毎月いくら家計へ入れているかも知らず、何を根拠に自分だけが養っていると言うんだ?」
北斗は口を開いたが、言葉が出てこなかった。家賃と公共料金という言葉だけでは、同じ質問へ答えられない。観月がいくら稼ぎ、いくら税金を納め、生活費へいくら補ってきたのか、一度も確かめていなかったからだ。
「お義父さんは、知ってるんですか?」
「知っている」
「いくらなんです?」
「本人の許可なく、私が話すことではない」
「どうせ大した額じゃないから、言えないんでしょう」
正志のこめかみが動いた。澄江が夫の袖へ手を伸ばしたが、正志は大声を出さなかった。代わりに椅子へ座り直し、冷めたみそ汁の椀を北斗の前へ戻した。
「大した額かどうかで、人の価値を決めるつもりはない。しかし、君が観月を養っているという話は、私が知っている事実とは違う」
「だったら、数字を言ってくださいよ」
「観月が話したくないなら、言わない」
北斗は観月へ向き直った。先ほどまで妻の収入を小遣い程度と笑っていたのに、今は目の動きが変わっている。正志が知っていて自分だけが知らないことに、強い苛立ちを覚えていた。
「夫に隠し事をするのか?」
「北斗も、彩香さんとのことを隠していたでしょう」
「今は金の話だ!」
「私は、申告をしていることも、自分で税金を払っていることも話した。北斗は書類を見るのを嫌がったわ」
「年収を言えよ!」
「以前、去年の利益を話そうとしたら、北斗は何と言ったか覚えている?」
「知らないよ。昔のことなんか」
「女が株で稼いだ金は、どうせすぐ消える。そんな話を聞かせるなと言ったのよ」
北斗は眉を寄せ、記憶を探した。しかし思い出せないようだった。観月に投げつけた言葉は、北斗にとって覚えておくほど重要なものではなかった。
正志は食卓の家計簿を開き、観月が立て替えた金額を示した。月ごとの数字は違うが、結婚後の合計は百万円を大きく超えている。北斗が養っていると繰り返した期間、観月は自分の収入から二人の暮らしを支えていた。
「君が見ようとしなかった数字が、ここに全部残っている。食費、日用品、通院費、君の酒、君のワイシャツのクリーニング代まで、観月が負担している」
「そのくらい、妻なら出して当然でしょう」
「それなら、観月が君を養っていたとは考えないのか?」
「違いますよ。俺は男で、世帯主なんです」
「世帯主という欄に名前を書けば、妻を見下す権利が手に入るのか!」
正志の声が一段高くなった。澄江が持っていた椀の中で、冷めたみそ汁が揺れた。北斗は背もたれへ体を引き、観月は玄関までの通路を確かめた。
「うちの娘は、家賃と公共料金を払っているからと馬鹿にされるほど安くない。まして、君より収入が少なければ価値がなく、多ければ価値があるという話でもない」
「じゃあ、どういう話なんです?」
「妻が何をして、何を考え、どうやって暮らしているのか、君は何一つ知ろうとしなかったという話だ」
正志は卓上の卵焼きを一切れつまみ、口へ入れた。澄江が作ったものは砂糖が少なく、だしの味が強い。正志はいつもの味だと言い、水を一口飲んだ。
北斗は再び、自分の証券口座を確認した。含み益は十八万円まで減っていたが、まだ利益があることに安堵し、すぐ戻るとつぶやいた。観月はその画面を見ても何も助言しなかった。
「観月の年収が俺より多いって言いたいんですか?」
正志は答えず、観月を見た。数字を明かすかどうかを決めるのは、娘自身だった。観月は薄くなった痣の上へカーディガンの袖を下ろし、首を横に振った。
「今は言わないわ」
「どうしてだよ」
「私の収入が北斗より多ければ、急に大切にしてくれるの?」
「そんな話はしてないだろ」
「では、少なければ今までどおり見下していいの?」
「俺は見下してなんかいない!」
「寄生虫、無能、社会経験のない女。全部、北斗が私に言った言葉よ」
北斗は黙り込み、テーブルに落ちた米粒を指で潰した。観月は父が問いかけた意味を理解していた。年収を自慢するためではなく、北斗が妻について何も知らないまま、優劣だけを決めていたことを明らかにする質問だった。
「私の年収は、離婚に必要な資料を確認する場で伝えるわ。弁護士も同席する場所でね」
「離婚って、本気なのか?」
「新しい家も決めてある。引っ越し業者も予約したわ」
「そんな金、どこにあったんだよ」
「私が働いて得たお金よ」
北斗は観月と三台のモニターを交互に見た。毎日出勤する自分だけが働き、家にいる観月は何も生み出していない。その前提へ、初めて小さな亀裂が入った。
正志は食卓を離れ、外していたネクタイを結び直した。澄江は残った卵焼きと炊き込みご飯を保存容器へ入れ、観月の昼食として冷蔵庫へしまった。ふたには油性ペンで「お昼に食べること」と書いた。
「四日後、迎えに来る」
正志は観月へ告げ、旅行鞄を持った。北斗には答えを教えなかった。自分が知らなかった妻の年収がいくらなのか、北斗は初めて気にし始めていた。
しかし、彼が最初に考えたのは、観月がどれほど努力したのかではなかった。妻の口座に、自分が使える金がいくら残っているのかということだった。




