第6話 追証の朝
第6話 追証の朝
月曜日の午前六時、観月はスマートフォンの振動で目を覚ました。水色のパジャマの上へ紺色のカーディガンを羽織り、枕元に置いていた眼鏡をかける。表示されていたのは、北斗が買っている小型株の発行会社から出された、業績予想の修正を知らせる通知だった。
会社が発表した資料には、主力事業の受注減少、予定していた新規事業の延期、大幅な赤字転落が記載されていた。交流サイトで繰り返されていた「大型契約が近日中に発表される」という噂には、一言も触れられていない。観月は資料を最後まで読み、北斗の寝室の扉をたたいた。
「北斗、起きて。あなたが買った会社から、下方修正が発表されているわ」
「朝から何だよ」
「黒字予想が赤字へ変わっている。新規事業も延期ですって」
「だから?」
「信用取引をしているのでしょう。取引が始まる前に、口座を確認したほうがいいわ」
布団の中で何かが動き、北斗が寝返りを打つ音がした。昨夜遅くまで交流サイトを見ていたため、起きる気配はない。観月がもう一度声をかけると、枕が扉へぶつかる鈍い音が返ってきた。
「大口が安く買うために、わざと悪い発表を出したんだよ」
「会社が、自分の株を安くするために業績を悪く発表すると思うの?」
「お前には分からないんだ。投資家の世界には、表に出ない事情があるんだよ」
「少なくとも、口座は確認して」
「うるさい。俺が損するのを期待してるんだろ」
観月は返事をせず、台所へ向かった。冷蔵庫から昨夜の豚汁を出し、鍋へ移して弱火にかける。ゴボウとみその匂いが広がる中、冷凍しておいたご飯を温め、塩ザケを半分ずつ皿へ載せた。
食卓の端には、父の正志が食べ損ねた山菜おにぎりが一個残っていた。冷蔵庫へ入れてあったため少し硬くなっていたが、観月は捨てずに自分の朝食へ加えた。父が北斗へ年収を尋ねたときの声を思い出しながら、ラップを外した。
午前七時を過ぎると、北斗がようやく寝室から出てきた。白いワイシャツのボタンを留めながら、片手で証券口座を開いている。寝癖の残った髪を何度もかき上げ、売買板を表示したところで足を止めた。
「何だよ、この売り注文の数」
「発表を見た人が売ろうとしているのだと思うわ」
「買い注文は、どうしてこんなに少ないんだ?」
「今の値段で買いたい人がいないからでしょう」
「昨日まで、大口が買い集めていたじゃないか!」
「株価が近づくたびに、買い注文が消えていると説明したわ」
北斗は椅子へ座り、何度も画面を更新した。売り注文は減るどころか、次々と増えていく。一方、交流サイトには「悪材料出尽くし」「ここで売る者は素人」といった投稿が並び始めていた。
「ほら、悪材料出尽くしだってさ。今日の安値で買えば、反発したときに儲かる」
「誰が書いたの?」
「有名な投資家だよ。何万人も登録者がいるんだぞ」
「その人が今も株を持っている証拠はある?」
「朝から水を差すなよ。お前は本当に性格が悪いな」
北斗は豚汁を一口飲んだが、熱いと言って椀を乱暴に置いた。汁がこぼれ、食卓に置いていたネクタイの先を濡らす。観月が布巾を差し出すと、北斗は妻がもっと早く拭くべきだと言いながら、自分では手を動かさなかった。
午前九時、取引が始まった。しかし、小型株には値段がつかなかった。大量の売り注文が値幅制限の下限まで積み上がり、買い注文がほとんど入らないため、売買が成立しなかった。
会社へ出勤した北斗から、午前九時十五分に電話がかかってきた。観月は洗った塩ザケの皿を水切り籠へ置き、通話を録音してから電話へ出た。受話口の向こうでは、誰かが朝礼を始める声が聞こえている。
「売り注文を出したのに、売れないぞ!」
「買う人がいないからよ」
「成行にしてるんだ。いくらでもいいから売るって注文だろ?」
「そうよ。でも、反対側に買い手がいなければ成立しない」
「じゃあ、どうしたら売れるんだよ!」
「買い注文が入るまで待つしかないわ」
「お前、売れなくなるって知ってたんじゃないのか?」
「昨夜の発表が出る前には知らないわ。今朝、すぐに知らせたでしょう」
「もっと早く起こせよ!」
「六時に起こしたわ。北斗が聞かなかったのよ」
北斗は舌打ちし、電話を切った。その後も午前中だけで四回、観月へ電話をかけてきた。観月が答える内容は変わらず、買い手がいなければ売れないということだけだった。
その日の小型株は、ほとんど売買が成立しないままストップ安で終わった。北斗の口座から、前日まで表示されていた含み益が消えた。代わりに赤い数字で、三十万円を超える含み損が表示された。
北斗が帰宅したのは、午後七時前だった。紺色のスーツは肩の部分に雨粒が残り、ワイシャツの襟には汗の染みができている。玄関で革靴を脱ぎ捨てると、観月が用意した夕食へ目も向けず、食卓へノートパソコンを広げた。
「明日は戻るよな?」
「私には分からないわ」
「悪い発表は、もう株価に織り込まれたんだろ?」
「今日、取引がほとんど成立していないから、売りたい人がまだ多く残っているわ」
「じゃあ、安いところで買い増せばいいのか?」
「借りたお金で、これ以上買うのはやめたほうがいい」
「損を取り戻すには、買い増すしかないだろ!」
食卓には、サンマの塩焼き、大根おろし、キュウリとワカメの酢の物が並んでいた。サンマの皮は香ばしく焼けていたが、時間がたって脂が白く固まり始めている。北斗は魚を見て、こんな日にのんきにサンマを焼いていたのかと観月を責めた。
「北斗が帰ってくると思って、夕食を作ったのよ」
「俺が何百万も損するかもしれないんだぞ。飯なんかどうでもいいだろ!」
「食べないなら、冷蔵庫へ入れるわ」
「勝手にしろ!」
北斗は交流サイトを開き、以前その銘柄を推奨していた人物の名前を検索した。しかし、過去の投稿は削除され、高級車と腕時計を写した画像も消えていた。別の利用者からは、推奨者が高値で売り抜けたのではないかという指摘が相次いでいた。
「ふざけやがって。自分だけ逃げたのか」
「可能性はあるわね」
「お前は知ってたんだろ!」
「その人がいつ売ったかは知らないわ」
「じゃあ、何で買い板が消えているなんて言ったんだよ!」
「見たままを説明しただけよ。私は決算を確認し、借金で買い増さないようにも言ったわ」
「もっと真剣に止めればよかっただろ!」
観月はエプロンのポケットに入れた録音機が動いていることを確かめた。助言したときには邪魔をするなと怒鳴り、損失が出ると止め方が足りなかったと責める。北斗が自分の判断を認めることは、最後までないのかもしれなかった。
翌朝も、小型株には大量の売り注文が並んだ。北斗は会社へ体調不良だと連絡し、黒いTシャツと灰色のスウェットパンツ姿でパソコンの前へ座っていた。観月が用意したチーズトーストは冷え、載せたチーズの表面が硬くなっていた。
午前九時半、証券会社から追加保証金を求める通知が届いた。不足額は四十七万六千円で、指定された期限までに入金できなければ、証券会社が北斗の建玉を強制的に決済する。北斗は表示された数字を指で何度もなぞった。
「四十七万円なんて、どういう計算だよ」
「株価が下がって、預けている保証金が不足したのよ」
「今日戻れば、払わなくていいんだろ?」
「期限までに不足が解消されなければ、入金が必要になるわ」
「強制決済されたら、どうなる?」
「証券会社が売れると判断したところで処分する。売ったあとに損失が残れば、その分も支払わなければならないわ」
「俺は売りたくないんだぞ!」
「信用取引を始めるときに、規約へ同意したでしょう」
北斗は立ち上がり、寝室の引き出しから腕時計の箱と保証書を取り出した。毎月四万円を払い続けている銀色の腕時計を外し、柔らかな布で文字盤を拭く。購入したときは一生ものだと自慢していた時計だった。
「どこへ行くの?」
「質屋だ。一時的に預けるだけだからな」
「追証へ入れるつもり?」
「株が戻ったら、すぐに取り返す」
「時計を手放してまで続けるの?」
「今売ったら、損が確定するだろ!」
北斗は黒いパーカーを羽織り、時計の箱を抱えて出ていった。観月は食卓に残されたチーズトーストを小さく切り、昼に食べるため保存容器へ入れた。北斗の飲みかけのコーヒーはすっかり冷め、牛乳の白い筋が表面へ浮かんでいた。
質店で提示された金額は、三十二万円だった。購入価格には遠く及ばなかったが、北斗に選ぶ余裕はなかった。不足分は銀行のカードローンから借り、合計五十万円を証券口座へ入金した。
しかし、翌日も小型株はストップ安となった。売り注文の一部しか成立せず、北斗の保有株は多く残っている。新たな不足金が発生し、前日に入れた五十万円では足りなくなった。
午後四時、北斗は会社を早退して帰宅した。観月は白いシャツに濃紺のロングスカートを着て、リビングで洗濯物を畳んでいた。北斗は革靴を脱ぐことも忘れ、寝室の机へ向かった。
「俺の通帳はどこだ!」
「北斗の通帳なら、机の引き出しにあるでしょう」
「違う。お前の通帳だ!」
「私の通帳をどうするの?」
「追証を払うんだよ。もう一度入れれば、株が戻るまで待てる!」
北斗は観月の下着が入った引き出しを開け、中身を床へ放り出した。セールで買った二枚組の下着も、古い靴下も、畳の上へ散らばる。次に押し入れを開け、冬物のセーターや薬の袋、年賀状を入れた箱まで引きずり下ろした。
「やめて。私のものに触らないで」
「通帳を出せばやめる!」
「ここにはないわ」
「親に預けたのか? それとも貸金庫か?」
「北斗には教えない」
北斗は観月の革鞄をつかみ、床へ中身をぶちまけた。ハンカチ、化粧ポーチ、折り畳み傘、のど飴が散らばる。化粧ポーチから転がった口紅を踏みつけ、白い畳へ赤い線を残した。
「お前の貯金を出せ! 夫が困っているときに助けるのが妻だろ!」
「利益が出ていたときは、自分の金だと言っていたでしょう」
「俺が儲ければ、夫婦の金になったんだよ!」
「では、損失だけを私に負担させるの?」
「家賃も公共料金も払ってやっただろ! 今こそ恩を返せ!」
「私は毎月、足りない生活費を自分で補ってきた。税金も保険料も払っている。借金をして始めた北斗の投資に、私のお金は出さないわ」
北斗は床に落ちていた化粧ポーチを壁へ投げた。中に残っていた鏡が割れ、壁紙に小さな傷がついた。観月はすでに録音を始め、避難用の鞄とスマートフォンを持って玄関近くまで下がっていた。
「今の音も録音しているわ。これ以上、私のものを壊さないで」
「また録音か。俺をはめるために、ずっと準備してたんだな!」
「北斗が何もしなければ、記録されても困らないでしょう」
「録音機をよこせ!」
北斗は観月へ向かって歩き出した。観月が一歩下がると、北斗は通路をふさごうと腕を広げる。前につかまれた左腕が、長袖の下で強くこわばった。
「近づかないで。触ったら警察を呼ぶわ」
「夫婦げんかで警察が来るわけないだろ」
「診断書も、以前つかまれたときの録音もある」
「それを消せ!」
北斗が右手を伸ばした。観月は玄関の扉を開け、靴を履かないまま廊下へ出た。北斗の指が白いシャツの袖へ触れたが、つかまれる前に腕を引くことができた。
観月は扉を閉め、靴下のまま非常階段へ向かった。コンクリートの床は雨の湿気を吸って冷たく、手すりには水滴がついていた。一階下の踊り場まで逃げると、震える指で警察へ電話をかけた。
「夫が通帳を出せと怒鳴り、部屋を荒らしています。私の持っている録音機を取ろうとして、腕をつかもうとしました。以前にも腕をつかまれ、壁へ押されています」
電話の途中、上の階で扉の開く音が聞こえた。観月はさらに下へ進み、マンションの管理室近くへ移動した。避難用の鞄には財布、身分証明書、薬、充電器、下着二組、新居の鍵が入っていた。
警察官が到着すると、観月は録音を聞かせ、以前取得した診断書の写しも見せた。部屋へ戻った警察官に対し、北斗は妻が共同財産の通帳を隠し、投資の損失を喜んでいると訴えた。床へ散らばった衣類と割れた鏡については、探し物をしていただけだと説明した。
「奥さんの口座から金を出すよう、怒鳴りましたか?」
「夫婦なんだから、助けてくれと言っただけです」
「録音には、『通帳を出せ』『録音機をよこせ』という声が入っています」
「こいつが俺を怒らせるようなことを言うからですよ!」
「今後、奥さんへ直接金銭を要求したり、物を投げたり、体へ触れたりしないでください」
北斗は納得していない顔をしたが、警察官の前では観月へ近づかなかった。観月は立ち会いのもとで、ホテルへ持っていく衣類と仕事用のノートパソコンを回収した。壁際には割れた鏡が落ち、畳には折れた口紅の赤い跡が残っていた。
「追証はどうするんだよ!」
北斗は玄関に立つ観月へ叫んだ。警察官が北斗との間へ入ると、それ以上は近づいてこなかった。観月は靴を履き、避難用の鞄を肩へ掛けた。
「私には関係ありません」
「夫婦だろ! 俺が何百万も損するんだぞ!」
「信用取引の危険を説明した。損切りも、借金で買い増さないことも勧めたわ」
「だからって、見捨てるのか?」
「北斗が困っているから離れるのではない。私へ何をしてもいいと思っている人から離れるのよ」
その夜、観月は相沢弁護士が手配したビジネスホテルへ避難した。ベージュの部屋着へ着替え、コンビニで買った鮭のおにぎりとカップのみそ汁を机へ置く。湯を注いだみそ汁からワカメとネギの匂いが立ち、狭い室内へ広がった。
相沢へ連絡すると、翌朝、北斗へ受任通知を送ることが決まった。今後の連絡はすべて代理人を通し、観月へ直接電話をかけたり、居場所を探したりしないよう求める。残った荷物は、両親と引っ越し業者の立ち会いで運び出すことになった。
「北斗の借金まで、私が払うことになりますか?」
「ご主人が自分の判断で行った投資による債務です。日常の生活に必要な借金ではありません。観月さんが保証人になっておらず、名義も貸していないのなら、通常はご主人自身が負担します」
「私の口座からは、一円も渡していません」
「それで構いません。今夜はホテルから出ず、連絡が来ても応じないでください」
電話を切ると、観月は鮭のおにぎりを一口食べた。海苔は少し湿っていたが、温かいみそ汁と一緒に食べると、強張っていた肩がわずかに下がった。窓の外では雨が続き、車のタイヤが水をはねる音が聞こえていた。
北斗の口座では、その夜も売り注文が残っていた。時計を質に入れて作った金も、カードローンから借りた金も、下落を止めることはできない。市場は北斗の自尊心にも、家賃を払ってきたという主張にも興味を示さなかった。
観月はホテルの便箋へ、今日起きたことを時刻順に書いた。最後に「北斗へ資金提供なし」と記し、赤いペンで二重線を引く。北斗の投資損失も浪費による借金も、観月が背負うべき生活費ではなかった。
観月は新居の鍵を枕元へ置き、スマートフォンの電源を切った。家を出る予定は数日後だった。しかし北斗は、自分の手でその日を早めた。




