第7話 空になったトレードルーム
第7話 空になったトレードルーム
午前七時、北斗は観月のいない食卓で、コンビニのおにぎりを食べていた。白いワイシャツの襟は曲がり、紺色のネクタイには昨日こぼしたコーヒーの染みが残っている。流しには洗っていない皿と豚汁の鍋が積まれ、部屋には冷えたみそと生ごみの匂いが漂っていた。
警察官から注意を受けた翌日も、北斗は会社へ行かなければならなかった。二日続けて体調不良を理由に休み、昨日は午後から出勤したものの、追証の通知を見て早退している。これ以上休めば上司から事情を聞かれるため、北斗は食べかけのおにぎりを机へ置き、証券口座を確認した。
小型株には、取引開始前から大量の売り注文が並んでいた。北斗が出した売却注文も残っており、株価がいくら下がっても買い手が現れなければ売れない。証券会社からは、期限までに不足金が解消されなかったため、建玉を強制的に決済するという通知が届いていた。
「観月のせいだ。あいつが金を出していれば、こんなことにはならなかった」
北斗は誰もいない部屋でつぶやいた。以前なら、観月が温かいコーヒーを出し、曲がった襟を直してくれた時間だった。今朝はボタンを一つずらして留めていたことにも気づかず、黒い革靴を履いて玄関を出た。
北斗が駅へ向かったことを調査員が確認すると、相沢弁護士から観月へ連絡が入った。観月は両親と一緒に、マンションから少し離れた駐車場で待っていた。白いシャツの上へ薄いベージュのジャケットを羽織り、動きやすい黒いパンツとスニーカーを履いている。
正志は作業用の紺色の上着を着て、軍手をズボンのポケットへ入れていた。澄江は茶色のカーディガンに長いスカートを合わせ、朝早く握った梅と昆布のおにぎりを保冷袋に入れている。観月が何も食べていないと知ると、澄江は駐車場の車止めへハンカチを敷き、梅のおにぎりを一つ渡した。
「引っ越しが始まったら、食べる時間がなくなるでしょう。今、半分でも食べなさい」
「まだ食欲がないの」
「おなかが空いたままでは、頭が働かなくなるわ。北斗君のためではなく、自分のために食べるのよ」
「分かった。半分だけ食べる」
観月はラップを外し、梅干しの赤い部分から一口かじった。塩気が強く、温かい緑茶を飲むと、冷えていた指先が少し緩んだ。正志は北斗のいる方向を何度も見たが、娘を急かさず、引っ越し業者のトラックが来るのを待った。
午前八時半、相沢と事務員、引っ越し業者が到着した。警察にも事前に相談しており、北斗が戻ってきた場合はすぐ通報できるようにしてある。観月は自分の鍵で扉を開けたが、玄関へ一歩入ったところで足を止めた。
部屋は、警察官と出たときのままだった。引き出しから放り出された衣類が床に積もり、割れた鏡と折れた口紅が壁際に落ちている。口紅の赤い跡は白い畳へこびりつき、踏まれた薬の袋から錠剤が二粒転がっていた。
「昨日より散らかっているわ」
澄江が小さな声で言った。北斗は観月が出たあとも通帳を探したらしく、台所の戸棚や食器棚の引き出しまで開けていた。砂糖と塩の容器は蓋がずれ、床には乾燥ワカメが散らばっている。
「先に写真を撮りましょう」
相沢の言葉で、観月はスマートフォンを取り出した。玄関、寝室、台所、自室を入口から順番に撮影する。引き出しの状態、壊れた鏡、畳の汚れ、床に落ちた薬も、時刻が分かる形で記録した。
「お父さん、すぐに片づけないで。どこに何があったか、全部残してからにするわ」
「分かった。手を出さない」
「運ぶものには、青いシールを貼ってあるの。北斗名義のものと、結婚後に二人で買った共有物には触らないで」
正志はうなずいた。怒りを押さえるように軍手を握っていたが、観月の指示に従い、勝手に荷物を動かさなかった。澄江も散らばった服を拾いたそうにしていたものの、写真が終わるまで台所の入口で待った。
持ち出す家具は、観月が結婚前から使っていた本棚、机、椅子、小さな整理箪笥だった。購入時の領収書と、独身時代の部屋を写した写真も残っている。衣類、書籍、帳簿、仕事用のパソコンと三台のモニターには、前日までに一覧番号をつけてあった。
一方、結婚後に買った冷蔵庫、洗濯機、食卓、ソファ、食器棚はそのまま残した。観月が代金の多くを出した物もあったが、今日は勝手に運ばない。正面、側面、型番、現在の傷を写真に撮り、共有物一覧へ記載した。
「この土鍋は、どうするの?」
澄江が食器棚の下段から、茶色い土鍋を見つけた。観月が独身時代に母からもらったもので、底には焦げた跡が幾つも残っている。結婚した冬、北斗と初めて寄せ鍋を作ったときにも使ったものだった。
「私のものだけれど、置いていくわ」
「持っていかなくていいの?」
「新しい部屋は、IHなの。これは使えないから」
「では、うちへ持って帰る? お父さんが湯豆腐に使いたがるわ」
「相変わらず、肉より豆腐が好きなのね」
正志は台所の入口から、自分は鶏の水炊きも好きだと反論した。澄江は昨日も豆腐を食べていたでしょうと言い返し、観月は二人のやり取りを聞きながら土鍋へ青いシールを貼った。北斗の怒鳴り声しか残っていなかった部屋へ、短い笑い声が戻った。
引っ越し業者は、まず観月の自室から作業を始めた。モニターの配線を一本ずつ外し、端子が傷つかないよう保護材で包む。観月は接続場所を書いた小さなシールを貼り、ケーブルを種類ごとの袋へ分けた。
「この三台が、お仕事に使う画面ですか?」
若い作業員が尋ねた。観月がうなずくと、隣にいた正志が、娘の大事な商売道具だから慎重に頼むと頭を下げた。観月は父の言い方が少し大げさに聞こえ、思わず笑った。
「そこまで言わなくても、皆さん丁寧に扱ってくださっているわ」
「お父さんには、どれが大事で、どれがただの線なのか分からないんだ。全部大事だと言っておけば間違いない」
「この青い線は市販品だから、切れても買えるわよ」
「それでも、切れないほうがいいだろう」
三台のモニターが運び出されると、机の上には長方形の日焼け跡が残った。毎朝数字を追い、北斗の帰宅時間になると画面を消していた部屋だった。壁際の電源コードがなくなると、部屋は驚くほど広く見えた。
観月は最後に机の引き出しを確認した。北斗の暴言を記録したノートも、税務関係の書類も、すでに安全な場所へ移してある。奥から出てきたのは、結婚した年に北斗と撮った写真一枚だけだった。
写真の中の北斗は、観月の肩へ腕を回していた。二人で食べたパンケーキの皿が手前にあり、北斗が焼いた不格好な丸い生地へ、生クリームが山のように載っている。観月は写真を捨てず、薄い封筒へ入れた。
「持っていくの?」
澄江が尋ねた。観月は封筒を衣類の箱へ入れ、蓋を閉めた。北斗との五年間を、なかったことにするつもりはなかった。
「今すぐ捨てる必要はないでしょう。新しい家で、ゆっくり考えるわ」
正志は何も言わず、箱の番号を一覧表へ記入した。観月が決めたことへ、父が勝手に答えを出さない。その態度が、北斗の支配とはまったく違っていた。
午前十一時前、荷物の搬出が終わった。相沢は室内を一周し、共有物が残されていることを写真で確認した。食卓の上には、北斗宛ての封筒を置いた。
封筒には、相沢からの受任通知、離婚協議書の案、今後の連絡方法を記した書面が入っている。不貞行為の証拠写真、暴力についての診断書、経済的な支配と暴言の記録は、原本ではなく写しと一覧だけを添えた。詳細な証拠は相沢の事務所で保管している。
「北斗さんが戻ったあと、観月さんへ直接連絡してくる可能性があります。電話には出ないでください」
「着信も記録として残したほうがいいですか?」
「消さずに残してください。ただし、応答する必要はありません。危険を感じる内容が届いた場合は、すぐ私へ送ってください」
「分かりました」
観月は家の鍵を食卓へ置こうとしたが、相沢に止められた。離婚が成立するまでは住居や荷物の確認が必要になる可能性があるため、鍵の扱いは北斗側と正式に協議する。観月は鍵を自分の鞄へ戻し、代わりに直接訪問しない旨を書いた紙を封筒の横へ置いた。
部屋を出る前、観月は台所を見た。冷蔵庫には卵、豆腐、昨日買った牛乳が残っている。食材まで持ち出せば北斗に文句を言われると考え、そのままにした。
流しには北斗が残した皿があった。以前の観月なら、最後だからと洗ったかもしれない。しかし今日は水を出さず、現在の状態を写真に撮るだけにした。
「洗っていかなくていいの?」
澄江が小声で尋ねた。観月は濡れていないスポンジを見てから、首を横へ振った。北斗が使った皿は、北斗が洗えばよかった。
「北斗も、自分のことは自分でできる大人よ」
玄関の扉を閉めると、観月は長く息を吐いた。正志が荷物を持とうとしたが、観月は自分の鞄だけは自分で持った。中には新居の鍵、財布、薬、家族三人で食べるために澄江が握った残りのおにぎりが入っていた。
新居は、築十二年の中古マンションだった。高層階から夜景を見下ろすようなタワーマンションではなく、駅から徒歩十二分の住宅街にある七階建ての建物である。観月が選んだ部屋は四階の南向きで、管理人が平日の日中に常駐し、防犯カメラとオートロックも設置されていた。
観月は住宅ローンを組まず、結婚前から運用してきた資金の一部で購入した。北斗との共有財産と混ざらないよう、資金の出所は相沢と税理士に確認してもらい、銀行の取引履歴も保管している。派手な共用ラウンジも展望風呂もなかったが、壁が厚く、隣室の生活音がほとんど聞こえないことが決め手になった。
玄関へ入ると、新しい畳や塗料の匂いではなく、前の住人が置いていった木製家具の薄い香りがした。売り主が丁寧に使っていたため、床には目立つ傷がない。台所の小窓からは、近くのパン屋が焼く甘い匂いが風に乗って入ってきた。
「いい部屋ね。日当たりもよいわ」
澄江はカーテンを開けた。午後の光が床へ広がり、まだ何も置かれていないリビングを明るくする。正志は窓の鍵、玄関の補助錠、非常階段の位置を順番に確認した。
「お父さん、不動産屋さんより細かいわよ」
「防犯設備が整っていると聞いても、自分の目で見ないと分からない」
「親は、木の上に立って見るんでしょう?」
「今日は四階まで上がって見に来たんだ」
澄江が、お父さんはうまいことを言ったつもりなのよと観月へ耳打ちした。正志は聞こえているぞと言い、リビングに運ばれた段ボールを番号順に並べ始めた。観月は久しぶりに、声を押し殺さずに笑った。
南向きの一室は、トレードルームにするため空けてあった。窓には遮光カーテンをつけ、日差しがモニターへ映り込まない位置に机を置く。引っ越し業者は観月の指示に従い、三台のモニターを横一列に並べた。
「電源を入れてみてもいいですか?」
「お願いします」
作業員が配線を確認し、順番に電源を入れた。三台の画面へ青白い光が灯り、証券会社のログイン画面が表示される。観月は椅子へ座り、キーボードとマウスの位置を自分の手に合わせて直した。
以前の部屋では、北斗が帰る前に画面を消していた。利益が出ていても話さず、税理士からの書類も目につかない場所へ隠した。これからは、誰かの機嫌をうかがって仕事道具を片づける必要がなかった。
昼食は、澄江が持ってきたおにぎりと、近所の総菜店で買ったコロッケだった。段ボール箱を食卓代わりにして、三人で床へ座る。梅、昆布、サケのおにぎりを一つずつ分け、紙コップへ温かいお茶を注いだ。
「新しい家で最初の食事が、段ボールの上というのも悪くないな」
正志がコロッケを半分に割った。ジャガイモの湯気と揚げ油の匂いが立ち、衣の破片がズボンへ落ちた。澄江がすぐ払おうとすると、正志は自分でできると言って手のひらで落とした。
「お父さん、北斗君を見て学んだの?」
「反面教師という言葉があるだろう」
「今日だけではなく、家へ帰っても自分で払ってね」
「努力します」
観月は紙コップを口元へ運び、二人の会話を聞いた。誰かが何かをしてくれたとき、それを当然だと思わず礼を言う。できることは自分で行い、できないことは頼む。その程度のことが、北斗との家ではできなくなっていた。
午後三時を過ぎたころ、北斗の小型株にようやく値段がついた。大量の売り注文の一部が成立し、証券会社による強制決済が順番に実行された。北斗が希望する価格ではなく、その時点で売買可能だった安値で処分された。
勤務中の北斗のスマートフォンへ、約定通知が続けて届いた。会議中にもかかわらず机の下で口座を開くと、信用取引による損失が赤い数字で表示されている。建玉を処分しても不足金が残り、証券会社から支払いを求める通知まで届いた。
「何だよ、これ。勝手に売るなよ」
北斗は会議室で声を漏らした。隣の同僚が振り向いたため、慌てて画面を伏せる。上司から発言するよう求められても、資料のどこを読んでいたのか分からず、同じ説明を繰り返した。
強制決済による損失だけでなく、質屋へ預けた時計の借入金、銀行とカード会社から借りた金、ゴルフ用品や時計の残債もある。すべてを合計すると、北斗が返さなければならない金額は約六百万円に膨らんでいた。年収五百五十万円の北斗が、生活を変えずに返せる金額ではなかった。
北斗は定時になると会社を飛び出し、マンションへ戻った。玄関を開けても、観月の「おかえりなさい」という声はない。代わりに、朝置いたままのコンビニおにぎりから酸っぱい匂いが漂っていた。
「観月!」
北斗は靴を脱ぎ捨て、リビングへ入った。ソファ、食卓、冷蔵庫は残っている。けれど観月の衣類、小さな整理箪笥、本棚はなく、自室だった場所からは机も三台のモニターも消えていた。
北斗は空になった部屋の中央へ立った。壁にはモニターの後ろにたまっていた薄い埃の跡があり、床には机の脚が置かれていた四つのへこみが残っている。観月が毎日ここで何をしていたのか、北斗は最後まで確かめなかった。
「本当に出ていきやがったのか」
北斗は食卓へ戻り、置かれていた封筒を開けた。相沢弁護士の受任通知、離婚協議書の案、不貞行為と暴力、生活費に関する証拠の一覧が入っている。今後の連絡はすべて代理人を通し、観月へ直接接触しないよう記載されていた。
北斗はすぐに観月へ電話をかけた。呼び出し音は鳴らず、設定された転送先へつながる。相沢法律事務所の職員が応答し、観月へ直接取り次ぐことはできないと告げた。
「夫が妻に電話して、何が悪いんですか!」
「今後のご連絡は、当事務所を通してください」
「勝手に家を出て、俺の家具まで持っていったんですよ!」
「観月さん名義の物だけを搬出し、共有物については写真と一覧を残しています。ご確認ください」
「追証が出てるんです。あいつの金が必要なんですよ!」
「観月さんに支払い義務があるとお考えなら、根拠を文書でお示しください」
北斗は電話を切り、もう一度かけた。同じ事務所につながり、同じ説明を受ける。三度目には応答せず、着信履歴だけが記録された。
「寄生虫のくせに、逃げやがって」
北斗は誰もいない部屋へ怒鳴った。しかし返事はなく、食卓に積まれた皿も勝手には洗われない。冷蔵庫を開けると卵と豆腐、牛乳が残っていたが、それで何を作ればよいのか分からなかった。
流しには朝の豚汁が入った鍋があった。北斗は火へかけず、冷えたまま椀へ注ぐ。脂の固まった汁を一口飲むと、生ぬるいみその味が口に広がった。
北斗は椀を流しへ置き、再び観月へ電話をかけた。今度はすぐ切り、交流サイトを開いて小型株の情報を探した。以前まで買いを勧めていた人々は消え、損失を抱えた利用者たちの怒りだけが並んでいた。
そのころ観月は、新しいトレードルームで三台のモニターを確認していた。遮光カーテンの隙間から夕方の光が入り、机の上には澄江が入れた温かいお茶がある。北斗からの着信履歴は相沢へ転送され、観月のスマートフォンが鳴ることはなかった。
「今夜は、私たちも泊まるわ」
澄江は客用の布団を広げながら言った。正志はリビングの床へ毛布を敷き、観月には寝室のベッドを使わせるつもりだった。夕食には近所の蕎麦店から、天ぷら蕎麦を三人分取った。
「お母さんたちは、ホテルへ泊まってもいいのよ」
「娘の新居に最初に泊まるのは、親の特権でしょう」
「そういう特権があるの?」
「今、お母さんが作った」
正志は天ぷらのエビを一本、澄江の器へ移した。澄江はお父さんがエビを二本とも食べると思っていたと笑い、代わりにカボチャの天ぷらを正志へ渡した。観月は二人のやり取りを見ながら、温かい蕎麦をすすった。
新居には、北斗の怒鳴り声も強い香水の匂いもなかった。壁の向こうからは生活音がほとんど聞こえず、空調の低い音と、三人が箸を動かす音だけがある。観月は食べ終えた器を自分で台所へ運び、両親と一緒に洗った。
空になったのは、北斗が見つけたトレードルームだけだった。観月の仕事も資産も生活も、何一つ消えてはいない。それらはすべて、観月自身と一緒に新しい部屋へ移っていた。
これまで黙っていた妻は、もう北斗の怒鳴り声を聞く場所にはいなかった。




