第8話 嘘で買えない部屋
第8話 嘘で買えない部屋
月曜日の午前十時、彩香は会社の給湯室で紙コップのコーヒーを飲んでいた。淡い桃色のブラウスに黒いタイトスカートを合わせ、肩までの茶色い髪を後ろで一つにまとめている。昼食用に買ったサンドイッチは机の引き出しへ入れたままで、朝から胃の辺りが重かった。
出勤前、自宅の郵便受けに法律事務所からの封筒が届いていた。中には、北斗との不貞行為について三百万円の慰謝料を求める通知書が入っている。ホテルへ入るところと翌朝出てくるところを撮影した写真の日時まで記載されており、知らないふりをして逃げられる内容ではなかった。
彩香は北斗から、妻とはすでに別居状態で、離婚の話し合いも終わりに近いと聞かされていた。しかし、通知書には、北斗が妻と同居し、毎日食事や弁当を作ってもらっていた時期に不貞行為を続けていたと書かれている。彩香は冷めたコーヒーを流しへ捨て、震える指で北斗へ電話をかけた。
「北斗さん、奥さんの弁護士から手紙が来たんだけど」
「何の手紙?」
「何の手紙じゃないでしょう。慰謝料を三百万円払えって書いてあるの!」
「落ち着けよ。観月が金目当てで騒いでるだけだ」
「ホテルの写真も撮られてる。私の名前も勤務先も知られてるのよ」
北斗は声を低くし、周囲に誰もいない場所へ移動すると言った。彩香は給湯室の扉を閉め、紙コップを握り潰した。薄い紙から残っていたコーヒーが染み出し、指先へ苦い匂いがついた。
「奥さんとは、もう夫婦関係が終わってると言ったわよね?」
「終わってたよ。同じ家に住んでいただけだ」
「毎朝、お弁当を作ってもらってたんでしょう?」
「勝手に作ってただけだ。俺が頼んだわけじゃない」
「一緒に夕食も食べていたの?」
「家に帰れば飯が出てくるから、食ってやってただけだよ」
彩香は返事を失った。北斗は妻が家事をしない役立たずだと話していたが、実際には朝食も弁当も夕食も観月が用意していた。それを食べながら、北斗は妻とは終わっていると彩香へ説明していた。
「三百万円なんて、私には払えない」
「俺が払うから心配するな。こういうのは最初に高い金額を言ってくるものなんだよ」
「本当に払えるの?」
「当たり前だろ。俺がどれだけ稼いでると思ってるんだ」
「年収一千万円以上でしょう? それに投資も成功してるのよね?」
北斗は一拍遅れて答えた。株の損失や強制決済については話さず、一時的に資金を動かしているだけだと説明する。タワーマンションの契約にも影響はなく、観月との離婚が成立すればすぐに彩香と暮らせると約束した。
「今夜、会える?」
「今日は無理だ。仕事が忙しい」
「電話では話せない。奥さんの弁護士へ、いつまでに返事をするか決めなきゃいけないの」
「じゃあ、昼休みに外の喫茶店へ来い」
「会社の人に見られたら困るでしょう」
「もう写真まで撮られてるんだ。今さら気にしても仕方ない」
北斗は電話を切った。彩香は濡れた指をハンカチで拭き、潰れた紙コップをごみ箱へ捨てた。給湯室から出ると、同じ派遣会社の女性が廊下に立っており、彩香の顔を見て大丈夫かと尋ねた。
昼休み、彩香は会社から二つ先の通りにある喫茶店へ入った。北斗は先に奥の席へ座り、アイスコーヒーを飲みながらスマートフォンを操作していた。紺色のスーツはしわになり、左腕にいつもあった銀色の腕時計も消えている。
「時計、どうしたの?」
「修理に出してる」
「壊れたの?」
「定期的な手入れだよ。いい時計は、管理にも金がかかるんだ」
北斗はメニューも見ず、彩香にもアイスコーヒーを注文した。以前ならケーキも食べるかと聞いたが、今日は一番安い飲み物だけだった。運ばれてきたコーヒーの氷が溶けても、北斗は慰謝料について具体的な話をしなかった。
「いつ払ってくれるの?」
「相手の言い値を、そのまま払う馬鹿がいるか。俺が話をつける」
「どうやって?」
「観月には弱みがある。無収入なのに、俺の金で五年も暮らしてたんだ。その分を返せと言えば、慰謝料なんて引っ込める」
「でも、奥さんは弁護士を雇っているのよ」
「親に金を出してもらったんだろ。自分じゃ何もできない女だからな」
彩香は北斗の前に通知書を置いた。北斗は一枚目だけを読み、証拠一覧や回答期限を確かめようとしない。三百万円という数字の部分を指でたたき、観月は金に汚い女だと繰り返した。
「タワーマンションの話は、どうなってるの?」
「今、それを聞くのか?」
「大事なことでしょう。奥さんと別れたら、すぐ引っ越すと言ったじゃない」
「物件は探してるよ」
「どこのマンション?」
「湾岸だ。候補が多いから、まだ決めてない」
「間取りを見せて」
「仕事中に持ち歩いてるわけないだろ」
「スマートフォンで見ているんでしょう? 前に、三つの寝室があると言っていたわよね」
北斗は画面を伏せた。タワーマンションの物件情報を開くことも、内覧予約を見せることもできなかった。彩香はストローで薄くなったコーヒーを混ぜ、北斗の顔を見た。
「住宅ローンの事前審査は通ったの?」
「一括で買うつもりだから、ローンなんか必要ない」
「投資で、そんなに儲けたの?」
「俺には資産があるんだよ。いちいち疑うな」
「今の残高を見せて」
「夫婦でもない女に、口座を見せる必要はないだろ」
「夫婦になると言ったのは、北斗さんでしょう!」
彩香の声が大きくなり、隣の席にいた客が振り返った。北斗は周囲を気にして、声を抑えるよう命じた。彩香は唇を閉じたが、食卓の下で両手を強く握った。
「じゃあ、会社での役職を正確に教えて。管理職候補ではなく、今は何なの?」
「係長だよ。前にも話しただろ」
「年収は?」
「一千万くらいだ」
「くらいって何? 自分の年収でしょう」
「賞与や手当で変わるんだよ。女には分からない」
彩香はその場で追及するのをやめた。しかし会社へ戻ると、派遣会社から渡されていた配属先の資料と、中途採用の求人情報を調べた。北斗の会社では係長は管理職ではなく、同年代の想定年収は五百万円から六百万円と記載されていた。
北斗が一千万円を超えるためには、部長級まで昇進する必要がある。しかも北斗は、係長になって二年目だった。彩香が休憩室で同僚へ一般的な昇進について尋ねると、北斗が次期管理職候補に決まったという話も聞いたことがないと返された。
「どうして急に、北斗さんのことを聞くの?」
「ちょっと仕事で必要になっただけ」
「係長って、部下の勤怠をまとめるくらいよ。人事権もないし、管理職手当もつかないはずだけど」
「年収一千万円くらいある人もいる?」
「この会社で係長なら、まずないんじゃない?」
彩香は休憩室の自動販売機で水を買った。取り出し口へ落ちたペットボトルの音が、狭い部屋に響いた。蓋を開けても飲まず、冷たい容器を頬へ当てた。
その日の夜、北斗から「三百万円は俺が何とかする」とメッセージが届いた。直後に、「急いで五十万円だけ用意できないか」と別の文章が続いた。証券会社へ支払う不足金については触れず、離婚を有利に進めるための費用だと説明していた。
彩香はすぐに電話をかけた。自宅で部屋着に着替え、コンビニのカルボナーラを電子レンジへ入れたところだった。温め終了を知らせる音が鳴っても取り出せず、チーズとベーコンの匂いだけが狭い部屋へ広がった。
「どうして私が五十万円を用意するの?」
「今だけだ。来月には二倍にして返す」
「投資で失敗したんじゃないの?」
「失敗なんかしてない。証券会社が勝手に決済しただけだ」
「時計は修理じゃなくて、質屋へ入れたの?」
「誰から聞いた!」
「今の言い方で分かったわ」
「俺を疑うのか? お前のためにタワーマンションまで買おうとしてるんだぞ!」
「買おうとしていないでしょう。物件も決まっていない。年収も一千万円ではない」
「会社で調べたのか!」
「係長は管理職ではないし、年収は五百五十万円くらいだと聞いたわ」
北斗はしばらく黙った。次に口を開いたときには、年収だけで男を判断するのかと彩香を責めた。自分を金持ちだと偽って近づいたことには触れず、彩香を金目当ての女だと言い始めた。
「私が聞いたのではないわ。北斗さんが自分から、年収一千万円を超えていると言ったのよ」
「少し多めに言っただけだろ。これから昇進すれば、そのくらいになる」
「投資で会社を辞めるとも言ったでしょう?」
「計画は変わることもある」
「タワーマンションは?」
「離婚が片づけば買える」
「何のお金で?」
「観月には貯金があるんだ。財産分与で半分取れる」
彩香はスマートフォンを耳から離し、画面を見た。北斗は自分の金でタワーマンションを買うのではなかった。寄生虫と呼んでいた妻の貯金を奪い、その金で彩香との部屋を買うつもりだった。
「もう会わない」
「は?」
「交際を終わりにする。慰謝料については、自分で弁護士へ相談するわ」
「待てよ。俺が払うと言っただろ」
「そのお金は、どこにもないでしょう」
「五十万円だけ貸せば、立て直せるんだ!」
「貸さない。会社でも話しかけないで」
彩香は通話を切り、北斗の番号を着信拒否にした。電子レンジからカルボナーラを取り出すと、麺は水分を吸って固まり始めていた。フォークでほぐして一口食べたが、黒コショウの味ばかりが強く感じられた。
翌日、彩香は自分で探した法律事務所へ相談した。北斗が既婚者であることは最初から知っていたため、責任をすべて逃れられるわけではない。しかし北斗から、夫婦関係はすでに破綻しており、離婚協議中だと説明されていたことも伝えた。
担当弁護士は、北斗とのメッセージや贈り物、ホテルへ行った日を整理するよう求めた。慰謝料請求を無視せず、観月側の代理人と交渉する必要がある。彩香は北斗に責任を押しつけるのではなく、自分がしたことについては自分で対応すると決めた。
ところが、相談を終えて会社へ戻ると、社内連絡用の端末へ北斗から何通ものメッセージが届いていた。個人的な連絡に使ってはいけない社内の連絡機能で、「休憩室へ来い」「勝手に弁護士へ相談するな」「五十万円を用意しろ」と送られている。彩香が返事をしないでいると、北斗は派遣社員が働くフロアまでやって来た。
「彩香、ちょっと来い」
「仕事中です。個人的な話はしません」
「五分でいい。休憩室へ来い」
「嫌です。昨日、もう会わないと伝えました」
「俺を捨てるつもりか?」
周囲の社員が手を止めた。彩香は椅子から立ち上がらず、派遣先の責任者へ視線を向けた。責任者が北斗へ業務中だと注意すると、北斗は仕事の確認だと嘘をついた。
「どの業務についてですか?」
責任者が尋ねた。北斗は答えられず、彩香の腕をつかもうと手を伸ばした。彩香が椅子ごと後ろへ下がると、北斗の指はブラウスの袖へ触れただけで止まった。
「触らないでください!」
「大声を出すなよ。俺たちの問題だろ!」
「もう関係ありません。社内の連絡機能で、個人的なメッセージを送るのもやめてください」
「俺の金で高い飯を食ったくせに、都合が悪くなったら逃げるのか!」
責任者が二人の間へ入り、北斗を会議室へ移動させた。騒ぎを聞いた上司も駆けつけ、北斗は仕事上の注意をしていただけだと説明した。しかし社内端末には、五十万円を要求するメッセージがそのまま残っていた。
その日の午後、北斗は人事部へ呼ばれた。不貞行為そのものではなく、勤務時間中に私的な問題で派遣社員の業務を妨害したこと、社内の連絡設備を個人間の要求に利用したこと、彩香へ威圧的な言動をしたことが問題になった。会議室には人事担当者と北斗の上司が座り、机の上に印刷されたメッセージが並べられていた。
「これは、北斗さんが送信したものですね?」
「交際相手との行き違いです。仕事には関係ありません」
「仕事に関係のない内容を、なぜ社内の連絡機能で送ったのですか?」
「個人のスマートフォンを着信拒否されたからです」
「五十万円を用意するよう求めた理由は?」
「それは個人的な事情です」
「個人的な事情を勤務時間中に持ち込み、相手の席まで行って大声を出したのです。すでに複数の社員から報告が上がっています」
北斗は、彩香が金目当てで近づいてきた女だから注意しただけだと主張した。すると人事担当者は、相手の立場を利用して金銭を要求したと受け取られる可能性もあると指摘した。北斗は声を荒らげたが、それ自体が威圧的な言動として記録された。
事情聴取を終えた北斗は、午後の仕事へ戻れなかった。社員食堂で買ったカレーはほとんど手をつけないまま冷え、表面に薄い膜が張っていた。北斗はスマートフォンを握り、観月の弁護士事務所の住所を検索した。
午後五時過ぎ、北斗は相沢法律事務所へ押しかけた。ネクタイは緩み、髪は汗で額へ張りついている。受付には若い事務員が一人座り、来客用の机には新しいユリが生けられていた。
「観月を出せ!」
「お約束はございますか?」
「夫だ。妻に会うのに、予約が必要なのか?」
「観月さんはいらっしゃいません。今後のご連絡は、担当弁護士を通していただくよう通知しております」
「だったら、弁護士を出せ!」
受付の事務員は落ち着いた声で待つよう伝え、奥へ連絡した。北斗はカウンターを指で何度もたたき、置かれていた法律相談の冊子を床へ落とした。ユリの甘い香りが漂う事務所で、北斗の荒い息だけが大きく聞こえた。
相沢が会議室から出てくると、北斗は一歩前へ進んだ。相沢は近づかず、受付との間に十分な距離を取る。事務員はいつでも警察へ連絡できるよう、電話へ手を置いていた。
「無収入のくせに弁護士なんか雇いやがって。俺が養ってきた金を返せ!」
「観月さんが無収入だという根拠は何ですか?」
「専業主婦だからだ!」
「税務上の申告があり、ご自身で税金と社会保険料を支払っている方を、無収入とは言いません」
「家賃と公共料金は俺が払ってきたんだ! 五年分を返すのが当然だろ!」
「観月さんも生活費の不足分を負担し、家事を行っています。婚姻期間中の生活費を、離婚するからという理由で一方的に返還請求することはできません」
「だったら、あいつの貯金を半分よこせ!」
「どの財産が分与の対象になるかは、形成時期や原資を確認して協議します。北斗さんが金額を決めることではありません」
北斗は相沢の説明を聞かず、観月を呼べと繰り返した。追証とカードローンの支払いがあり、妻には夫を助ける義務があるとも訴えた。相沢は表情を変えず、投資と浪費による個人的な債務を観月が負担する理由はないと答えた。
「次回の協議は、今週金曜日の午前十時です。事前に送付した案内をご確認ください」
「俺は今すぐ話がしたいんだ!」
「観月さんへの直接の接触はお断りします。これ以上受付で大声を出したり、退去の要請に応じなかったりする場合は、警察へ通報します」
「俺を脅すのか?」
「警告です。すでに観月さんへの暴力について、診断書と警察への相談記録があります」
北斗は受付の周囲を見回した。事務員が電話を持ち、別の男性職員も廊下へ出てきている。警察という言葉を聞くと、北斗は床に落とした冊子を拾わず、出口へ向かった。
「金曜日に、あいつへ逃げるなと伝えておけ!」
「伝えません。協議の場では、必要なことを代理人から確認します」
北斗はガラス扉を強く閉め、事務所を出ていった。相沢は外へ追わず、受付の防犯カメラに時刻と行為が記録されていることを確認した。床に落ちた冊子は事務員が拾い、折れた角を指で伸ばした。
その夜、北斗は一人でマンションへ戻った。冷蔵庫には卵と豆腐しかなく、米の炊き方もよく分からなかったため、コンビニで買ったカップ麺へ湯を注いだ。三分待てずに蓋を開けると、麺はまだ硬く、粉末スープが底へ固まっていた。
北斗は食卓で、不動産情報のサイトを開いた。以前、彩香へ約束した湾岸のタワーマンションは、最も安い部屋でも北斗の収入では手が届かない。住宅ローンの簡易審査へ年収五百五十万円、カードローン残高、その他の借入額を入力すると、希望額の借り入れは難しいという結果が表示された。
「観月の金があれば買えるんだ」
北斗は麺をすすりながらつぶやいた。妻の資産がいくらあるのかは、まだ知らない。それでも観月が新しいマンションを購入したと聞き、自分から隠していた財産があるに違いないと考えていた。
彩香からは着信を拒否され、社内では人事部から今後の指示を待つよう言われている。時計は質店にあり、投資口座には不足金が残った。北斗が彩香へ見せた高級レストランも夜景も、借りた金と嘘の上に載っていた。
タワーマンションは、嘘では買えなかった。しかし北斗は最後まで、妻へ何をしたかを考えなかった。観月が自分より弱い人間であり、強く要求すれば最後には金を差し出すと、まだ信じていた。




