第9話 残高証明書
第9話 残高証明書
金曜日の午前九時半、観月は新居の台所で紅茶を入れていた。白いブラウスに濃紺のパンツスーツを合わせ、髪は低い位置で一つに束ねている。朝食に焼いたトーストの香りがまだ残り、流しの水切り籠には、青い小花柄の皿と紅茶のカップが一つずつ並んでいた。
相沢法律事務所へ持参する黒い革鞄には、証券口座の残高証明書、過去五年分の確定申告書、銀行口座の入出金履歴が入っている。書類は年度ごとに色の違うファイルへ分け、数字のつながりが分かる一覧表も作成した。結婚前から保有していた株式、その売却代金、新しく購入した銘柄、生活口座へ移した金額まで、一つずつ追えるようになっていた。
観月はカップに残った紅茶を飲み、食卓の上のパンくずを布巾で集めた。北斗と暮らしていたころは、出かける前にも彼の弁当を作り、脱ぎ捨てた靴下を拾っていた。今日は自分が使った皿だけを洗い、自分のために選んだ服を着て、自分の時間に合わせて家を出られた。
玄関には、母の澄江が持ってきた小さな鉢植えが置かれていた。白い花を三輪つけたニチニチソウで、水は土の表面が乾いてからでよいと教えられている。観月は指で土の湿り気を確かめ、まだ水は必要ないと判断した。
「行ってきます」
返事をする人はいなかった。それでも声に出してから扉を閉めると、観月は鍵を二度確認した。廊下の窓からは朝の光が差し、昨夜降った雨の匂いが残っていた。
午前十時、相沢法律事務所の会議室には、北斗と北斗側の弁護士が先に座っていた。北斗は黒いスーツに赤いネクタイを合わせていたが、ワイシャツの襟には小さなしわが寄っている。左手首に腕時計はなく、机の上には飲みかけの缶コーヒーが置かれていた。
北斗側の弁護士は、五十代の男性だった。名前を高瀬といい、北斗が何か話すたびに、まず自分へ相談するよう何度も注意している。北斗はうなずいていたが、観月が入室した瞬間、椅子から立ち上がった。
「やっと来たか。人を待たせるなよ」
「開始は午前十時です。私は遅れていません」
「妻なら、夫より先に来るのが普通だろ」
「北斗さん、発言は私を通してください」
高瀬が制止すると、北斗は不満そうに椅子へ座った。観月は北斗の正面を避け、相沢の隣へ腰を下ろす。会議室には新しい紙とコーヒーの匂いが混ざり、空調から低い風の音が聞こえていた。
相沢は、離婚の意思、不貞行為と暴力に対する慰謝料、共有財産の確認から話を始めた。観月は北斗と直接言い争わず、尋ねられたことへ順番に答える。北斗は腕を組み、何度も鼻で笑った。
「観月は感情的になって家を出ただけです。しばらく一人で暮らせば、現実が分かるでしょう」
「観月さんの離婚意思は変わりません」
「本人に聞いてるんですよ」
「今後の協議は代理人を通すという通知をお送りしています」
「夫婦の会話まで、弁護士に止められる筋合いはない!」
北斗は観月へ顔を向けた。以前と同じように声を大きくすれば、観月が目を伏せると思っている。しかし観月は革鞄を膝の横へ置き、北斗の目を見た。
「私の意思は、離婚協議書に書いてあるとおりです」
「強がるなよ。今は親に助けてもらってるんだろ?」
「両親には引っ越しを手伝ってもらいました。それ以外の援助は受けていません」
「そんなわけないだろ。無職のお前が、マンションを借りられるはずがない」
「借りてはいません」
「じゃあ、どうしたんだ?」
「購入しました」
北斗の口が半分開いた。すぐに、観月の両親が買ったに違いないと決めつける。正志が娘へ財産を隠していたのだと言い、離婚するならその金も財産分与の対象になると主張した。
「購入代金は、観月さん自身の口座から支払われています」
相沢が答えると、北斗は身を乗り出した。高瀬は落ち着くよう促し、観月側が提出する資料を確認してから話すべきだと注意した。北斗は机の上の缶コーヒーを一口飲み、苦いと顔をしかめた。
「どうせ、親から振り込んでもらった金だ。こいつにマンションを買える収入なんかありませんから」
「北斗さんは、観月さんの収入をご存じですか?」
「家で株を触っていただけです。俺が毎月三万円も渡して、家賃と公共料金まで払ってやったんですよ」
「観月さんは、あなたの税法上の扶養にも、健康保険の被扶養者にも入っていませんね」
「書類上はそうかもしれません。でも、実際に養っていたのは俺です」
北斗は勝ち誇ったように観月を見た。自分が家賃を支払ったという一点だけで、何度でも妻を下に置けると信じている。相沢が生活費の分担記録を示しても、家事は妻がして当然だと言い張った。
「観月、今なら戻ってきてもいいぞ」
北斗が突然言った。高瀬が止めるより先に、椅子へ深く座り直し、条件を並べ始める。不貞行為と暴力に関する慰謝料請求を取り下げ、両親と弁護士に謝罪させるなら、妻として家へ戻ることを許すという内容だった。
「離婚したら困るのは、お前のほうだ。マンションを買ったといっても、親の金だろ。管理費も税金も払えなくなって、すぐ俺に泣きつくことになる」
「慰謝料を取り下げれば、戻ってよいということですか?」
「ああ。俺も鬼じゃないからな」
「彩香さんとは、どうするの?」
「あの女とは終わった。金目当てだったんだよ」
「年収一千万円で、タワーマンションを買うと話したのは北斗でしょう?」
「男なら、多少話を大きくすることもある。あいつが勝手に信じただけだ」
「私にも、投資で一億円稼いだら、よい家へ住ませてやると言ったわね」
「お前のために言ったんだ。夫として、夢を見せてやったんだよ」
観月は相沢へ視線を向けた。相沢がうなずいたため、黒い革鞄を開く。最初に取り出したのは、証券会社が発行した最新の残高証明書だった。
観月は書類を北斗へ直接渡さず、会議室の中央へ置いた。次に、銀行の残高証明書、確定申告書、結婚前からの入出金履歴を順番に並べる。書類の角はそろい、付箋には確認する項目が書かれていた。
「これが、現在の私の金融資産です」
北斗は最初、書類へ手を伸ばさなかった。妻が用意した紙など見る必要がないという顔で、缶コーヒーを持ち上げる。高瀬が確認するよう促すと、ようやく残高証明書を引き寄せた。
北斗の目が、一番下の数字で止まった。口座番号の一部、発行日、証券会社の印を確かめ、もう一度金額を見る。桁を数える指が途中で止まり、最初から数え直した。
「いち、じゅう、ひゃく……」
北斗の唇が動いた。表示されている金融資産の合計は、約一億二千万円だった。現金で購入した新居のマンションは、その金額に含まれていない。
「何だよ、これ」
「私の証券口座と銀行口座の残高です」
「一千二百万円の間違いだろ」
「一億二千万円です」
「そんな金があるわけない!」
北斗は残高証明書を持ち上げ、裏側を確認した。光へ透かし、印刷した偽物ではないかと言い始める。高瀬は書類を受け取り、証券会社が発行した正式な証明書であることを確認した。
「北斗さん、落ち着いてください。この書類に記載されているのは、一億二千万円です」
「観月の親が、今だけ口座に入れたんだ!」
「入出金履歴をご覧ください。結婚前から継続して運用されている口座です」
相沢は、結婚前の残高が記載された資料を提示した。観月が証券会社を退職した時点で保有していた資金、祖母から相続した株式、その後の売買履歴が年度ごとに整理されている。両親から一時的に振り込まれた金ではなかった。
「結婚前から運用していた資金は、生活費と混ぜずに管理してきました。結婚後の収益についても、どこから生じたものか追えるよう、すべて記録しています」
観月は説明しながら、確定申告書を開いた。収入、所得、納付した税額が記載され、税理士が作成した一覧表も添えられている。北斗は書類を受け取ったが、数字の意味をすぐには理解できなかった。
「去年の所得が、四千八百万円?」
「はい。毎年同じではありません。一昨年は三千百万円で、その前は損失が出た月もありました」
「お前、俺に隠れて、そんなに稼いでたのか!」
「隠していません。毎年申告をしていると話しました。税理士から届いた書類を見てほしいと言ったこともあります」
「金額は聞いてない!」
「話そうとすると、北斗が聞かなかったのよ。女が株で稼いだ金は、すぐ消える。面倒な話を食卓へ持ち込むなと言ったでしょう」
北斗は右の眉を二度動かした。思い出したのかもしれないが、謝ろうとはしなかった。代わりに、夫へ資産を報告しなかった妻が悪いと主張した。
「夫婦なら、収入を全部教えるのが普通だろ!」
「北斗は、時計の支払いもカードローンも教えなかったわ」
「俺の借金と一緒にするな!」
「どう違うの?」
「お前が金を持ってると知っていれば、三万円だけなんて渡さなかった。生活費だって、自分で全部払わせたのに!」
会議室が静かになった。高瀬は額へ手を当て、発言を訂正するよう北斗へ促した。しかし北斗は、自分が何を言ったのか分かっていない様子だった。
「つまり、観月さんに資産があると知っていれば、生活費を一切負担しなかったということですか?」
相沢が確認した。北斗は違うと言いかけたが、先ほどの言葉は会議室の録音にも残っている。観月は膝の上で両手を重ね、ゆっくり口を開いた。
「私は、あなたに養われていたのではありません。三万円では足りない生活費を、毎月自分で補っていました」
「でも、家賃と公共料金は俺が――」
「先月、北斗が負担した家賃と公共料金は約十万円。私が補った生活費は四万六千二百三十一円でした。それに、私は毎日食事を作り、洗濯と掃除もしていたわ」
「だったら、同じくらいだろ。俺だけが悪いわけじゃない!」
「私は、負担が同じかどうかを争っているのではない。北斗が私を寄生虫と呼び、自分だけが養っていると見下したことを話しているの」
北斗は残高証明書をもう一度見た。妻の金融資産は自分の年収の十倍どころではない。北斗が二十年以上、今の年収を一円も使わずに貯めなければ届かない金額だった。
「それなら、どうして三万円で文句を言ったんだよ。金があるなら、自分で払えばよかっただろ!」
「金額だけの問題ではなかったからよ」
「金を持っているのに、俺を試してたのか?」
「二人の生活に、二人で責任を持ちたかったの。私は北斗の食事を作り、足りない費用も出した。北斗にも、夫婦の暮らしを一緒に支えてほしかった」
「一億も持ってる人間が、千二百円の下着で騒ぐなよ!」
「千二百円だから問題にしたの。自分の金で必要な下着を買っただけなのに、北斗はレシートを破り、許可なく買い物をするなと言った」
観月はテープでつないだレシートの写しを、北斗の前へ置いた。赤いケチャップの染みが残り、商品名と千二百円という数字が読める。北斗はその紙を見ても、そんな昔のことは覚えていないと言った。
「北斗にとっては、覚えていない程度のことだったのね。でも私は、その下着を穿くたびに、許可なく物を買うなと言われたことを思い出したわ」
「そんなの、俺が金を持ってると思ってなかったからだろ!」
「私の残高が十万円なら、破ってよかったの?」
「そういう意味じゃない!」
「では、いくら持っていたら、人として扱ってくれたの?」
北斗は口を閉じた。机の上に置いた缶コーヒーへ手を伸ばしたが、中身はもう残っていなかった。何度振っても、空の缶から小さな金属音がするだけだった。
相沢は、観月が新居を購入した際の資金資料も提示した。購入代金は観月名義の口座から支払われ、その原資も結婚前からの資産につながっている。北斗は資料の説明を聞くより先に、マンションの価格を尋ねた。
「その部屋も財産分与で半分は俺のものだろ?」
「分与の対象となるかは、原資と形成経緯を踏まえて協議します。少なくとも、単に婚姻中に購入したという理由だけで、当然に半分を取得できるわけではありません」
「夫婦なんだから、妻の金も俺の金だろ!」
「では、北斗さんの投資損失も、観月さんの損失だとお考えですか?」
「当たり前だ。夫婦は助け合うものだろ」
「利益が出ていたとき、観月さんへ分ける予定でしたか?」
北斗は答えなかった。最初に十八万円の含み益が出たときも、小型株が値上がりしたときも、自分の才能で得た自分の金だと話していた。借金だけを夫婦で分けようとしていることは、高瀬にも隠せなかった。
「俺には六百万円も借金があるんだぞ。お前なら、すぐ払えるだろ!」
「払いません」
「一億二千万あるんだぞ! 六百万くらい、端金じゃないか!」
「北斗が自分で作った借金よ」
「夫を見殺しにするのか!」
「私は、借金で投資をしないよう何度も止めた。追証が出る危険も説明したわ」
「妻なら、最後まで助けるのが普通だろ!」
「妻の腕をつかみ、通帳を探して部屋を荒らす夫を、私はもう助けません」
北斗は椅子から立ち上がりかけた。高瀬が腕へ触れず、座るよう強い口調で命じる。相沢も会議を中断すると告げ、観月の前へ書類を寄せた。
「座ってください。これ以上声を荒らげる場合は、協議を打ち切ります」
「俺は妻と話してるんだ!」
「私はもう、北斗の妻としてここに来たのではないわ。離婚条件を協議する当事者として来ています」
観月の声は大きくなかった。北斗が怒鳴っても、椅子を引く音が響いても、言葉は途切れなかった。以前のように、北斗の夕食が冷めることも、翌朝の弁当も考える必要はない。
「私の好調な月の利益は、北斗が自慢していた年収より多かったわ」
「俺を馬鹿にしてるのか?」
「いいえ。それでも、収入の差であなたを見下したことは一度もありません。人の価値は口座残高では決まりませんから」
「今さら、きれいごとを言うな! 金があるから余裕ぶってるだけだろ!」
「そう思うなら、北斗は最後まで何も分かっていない」
観月は残高証明書ではなく、家計簿と一枚の写真を取り出した。写真には、結婚した年に北斗が焼いた不格好なパンケーキが写っている。生クリームは傾き、皿の縁にはこぼれた蜂蜜がついていた。
「私は、年収五百五十万円の北斗と結婚したのではないわ。焦げたパンケーキを作って、形は悪いけれど愛情は入っていると笑った人と結婚したの」
北斗は写真を見た。五年前の自分が観月の隣で笑っている。高級腕時計も外国製の車も持っていなかったころの写真だった。
「最初から金を持ってたなら、どうして俺と結婚したんだ?」
「好きだったからよ」
「だったら、もう一度やり直せるだろ。一億二千万あるなら、俺の借金を払って、新しい家で二人で――」
「やり直せないわ」
「どうしてだよ!」
「今、北斗が最初に言ったのは、私の借金を払って、だったからよ」
北斗は言葉を止めた。マンションを購入した観月に生活能力がないという主張も、離婚すれば妻が困るという脅しも、もう使えない。残ったのは、観月の金を自分の借金へ使わせたいという要求だけだった。
観月はパンケーキの写真を封筒へ戻した。残高証明書、確定申告書、入出金履歴もファイルへ収める。紙が重なる乾いた音が、静かな会議室へ響いた。
「あなたが失ったのは、金持ちの妻ではありません」
北斗は観月を見た。先ほどまで一億二千万円と書かれた紙ばかり追っていた目が、初めて妻の顔へ向いた。観月は黒い革鞄の留め金を閉じ、続けた。
「五年間、あなたを対等な夫として扱おうとした妻です」
北斗は口を開いたが、声は出なかった。自分の年収を自慢し、妻を寄生虫と呼び、千二百円の買い物まで責めた言葉が、すべて自分へ返ってきていた。けれど観月は、北斗を寄生虫とも無能とも呼ばなかった。
「本日の協議は、ここまでにしましょう」
高瀬が言った。北斗は反論せず、空になった缶コーヒーを握ったまま座っていた。力を入れすぎた缶の側面がへこみ、細い音を立てた。
観月は相沢と一緒に会議室を出た。受付には、朝と同じ白いユリが生けられている。甘い香りを吸い込み、観月は肩へ掛けた革鞄を持ち直した。
外へ出ると、雨は上がっていた。駅前のパン屋から、焼きたてのパンの匂いが流れてくる。観月は昼食用に、小さなクリームパンを一つ買った。
一億二千万円を持っていても、千二百円の下着を粗末に扱われれば傷つく。大きな家を買えても、一緒に暮らす相手から大切にされなければ、そこは安心できる場所にはならない。観月が守りたかったのは口座残高ではなく、自分の暮らしと、自分を人として扱う権利だった。
法律事務所の会議室では、北斗がまだ残高証明書の写しを見つめていた。だが、その紙に書かれた数字を何度数えても、観月が戻ってくることはなかった。




