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第10話 寄生していたもの

第10話 寄生していたもの


離婚協議が始まってから三か月後、観月は相沢弁護士と一緒に公証役場を訪れた。白いブラウスに薄い灰色のスーツを合わせ、黒い革鞄には離婚協議書、印鑑証明書、証券口座の履歴を入れている。待合室には古い紙と消毒液の匂いが漂い、窓の外では街路樹の葉が風に揺れていた。


北斗は約束の時刻を五分過ぎて現れた。紺色のスーツには細かなしわが寄り、ワイシャツの襟も少し黄ばんでいる。毎朝磨いていた銀色の腕時計は左手首から消え、代わりに量販店で買った黒い時計を着けていた。


「これに署名すれば、本当に終わりなんだな」


「離婚届の提出など、ほかの手続きもあります。今日は慰謝料の分割払いについて、公正証書を作成します」


相沢が説明すると、北斗は不満そうに書面をめくった。慰謝料は二百万円で、北斗の収入と借金を考慮し、毎月決められた金額を分割して支払う。支払いが滞った場合に備え、条件を満たせば給与などへの強制執行が可能になる取り決めも入っていた。


「二百万円なんて高すぎる。俺には投資の借金が六百万円もあるんだぞ」


「その借金は、北斗さんがご自身の判断で行った信用取引によるものです」


「夫婦だったんだから、観月にも半分くらい責任があるだろ」


「利益が出ていたとき、北斗は自分の金だと言っていたわ」


「昔の話を持ち出すなよ」


「数か月前の話よ」


北斗は唇を曲げ、書面を机へ戻した。自分の投資損失、時計のローン、カードローン、ゴルフ用品の残債も、夫婦で分けるべき借金だと主張していた。しかし、どれも日常生活のために観月と相談して負ったものではなく、観月は保証人にもなっていなかった。


財産についても、証券口座と銀行口座の履歴を基に整理された。観月が結婚前から所有していた資金、祖母から相続した株、そこから継続して運用してきた財産は、生活口座と分けて管理されている。婚姻中に形成された共有財産については、双方の代理人が資料を確認し、合意した内容に従って清算することになった。


「一億二千万円も持っているのに、俺から二百万円を取るのか?」


「私の資産額と、北斗が自分の行為に責任を負うことは別です」


「金持ちのくせに、細かい女だな」


「二百万円が小さな金額だと思うなら、一括で払えばいいわ」


北斗は返事をしなかった。時計を質に入れ、車を売却しても、投資で生じた不足金とカードローンは残っている。一括で支払える金がないことは、北斗自身が提出した資料に記載されていた。


彩香との話し合いは、すでに終わっていた。彩香は自分の弁護士を通し、北斗が既婚者だと知りながら交際を続けた責任を認めた。夫婦関係は破綻しているという北斗の説明を信じた事情も考慮され、慰謝料は当初の請求額から調整されたが、合意した金額は一括で支払われた。


「彩香が払ったなら、それで十分だろ。同じ不倫の慰謝料なんだから」


「北斗さんへの請求には、不貞行為だけでなく、暴力や経済的な支配についての解決も含まれています」


「暴力って、腕を一度つかんだだけじゃないか」


「通帳を出させるためにつかみ、壁へ押したのよ」


「あのときは追証で余裕がなかったんだ」


「千二百円の下着のレシートを破ったときは?」


「家計を心配して注意しただけだ」


「私を寄生虫と呼んだことは?」


「仕事で疲れていたんだよ。夫婦なら、そのくらい言うこともあるだろ」


北斗の口から出てくるのは、謝罪ではなく言い訳ばかりだった。観月は膝の上の革鞄へ手を置き、留め金を指で確かめた。以前なら北斗の機嫌が直るまで何度も説明したが、今日はもう納得させる必要がなかった。


「観月。今なら、まだ戻ってきてもいいんだぞ」


「戻りません」


「俺も反省してる。お前がそんなに稼いでると知っていれば、仕事だって認めた」


「私の仕事を認めたのではなく、口座残高を見て態度を変えただけでしょう」


「何が違うんだよ。俺の借金を払って、二人で投資をすればいい。お前なら取り返せるんだろ?」


「それが、北斗の考えるやり直しなの?」


北斗は口を閉じた。観月と暮らしたいのではなく、観月の資産と投資技術を使いたいだけだった。残高証明書を見たあとも、北斗が妻へ何をしたのかを理解した様子はなかった。


「私の口座に十万円しかなくても、大切にしてくれる人と暮らしたかったの」


「夫婦なんだから、金があるほうが助ければいいだろ」


「私は五年間、北斗を助けてきたわ。足りない生活費を払い、食事を作り、洗濯をして、毎朝弁当を持たせた」


「それは妻の仕事だろ」


「それを当然だと思っているうちは、何も変わらないわ」


観月は万年筆を取り出し、離婚協議書へ署名した。北斗も自分の弁護士に促され、しぶしぶ名前を書く。最後の一文字が少しにじんだが、北斗は書き直さず、印鑑を朱肉へ強く押しつけた。


必要な説明と確認が終わり、公正証書が作成された。観月は書類を革鞄へ収め、椅子から立ち上がった。北斗は廊下まで追いかけようとしたが、代理人から今後も直接の連絡を控えるよう止められた。


「観月、最後に聞かせろ。どうして、もっと早く金を持っていると言わなかった?」


「何度も話そうとしたわ」


「金額を見せれば、俺だってお前を馬鹿にしなかった!」


観月は足を止め、北斗を振り返った。左手首には、質流れになった腕時計を着けていた白い跡が残っている。観月はその跡を見てから、北斗の顔へ視線を戻した。


「お金を見せなければ大切にできない人とは、暮らせないわ」


「だったら、俺が変わればいいんだろ?」


「今も私の金で借金を返そうとしている。何も変わっていないわ」


観月は相沢と一緒に公証役場を出た。外には雨上がりの匂いが残り、近くの店からパンを焼く甘い香りが流れてくる。昼食用に小さなクリームパンを一つ買うと、紙袋から温かさが手のひらへ伝わった。


一か月後、北斗は会社から正式な処分を受けた。不倫そのものではなく、勤務時間中に彩香の業務を妨害し、社内の連絡機能を使って金を要求したことが理由だった。解雇は免れたが係長職を外され、顧客対応のない部署へ異動となった。


「どうして俺だけが、こんな目に遭うんですか?」


北斗は人事担当者へ食い下がった。しわの寄ったスーツの肘は白く擦れ、ネクタイの結び目も曲がっている。以前なら観月が玄関で直していたが、今は指摘する人もいなかった。


「私生活上の交際だけを理由とした処分ではありません。勤務時間中の行為と社内規則違反について判断した結果です」


「彩香だって悪いでしょう」


「相手の処遇について、北斗さんへ説明することはできません」


「俺には借金があるんです。役職手当までなくなったら、返せませんよ!」


「個人的な借金は、処分を変更する理由にはなりません」


北斗が何を言っても、決定は変わらなかった。新しい部署では部下がおらず、名刺から係長の文字も消えた。昼休みになっても以前の同僚から声をかけられず、社員食堂の隅で冷めたカレーを食べる日が増えた。


銀色の腕時計は期限までに金を用意できず、質流れになった。外国製の車も車検代と維持費を払えなくなり、売却した。十八万円で買ったゴルフクラブも中古品店へ持ち込んだが、査定額は購入時の三分の一にも届かなかった。


観月と暮らしたマンションの家賃も、一人では負担できなかった。北斗は郊外の築三十五年のアパートへ移った。六畳の洋室と小さな台所があり、浴室の換気扇を回すと、古い羽根が大きな音を立てた。


日曜日の朝、北斗は毛玉のついた黒いスウェット姿で起きた。床には洗っていないワイシャツと靴下が積み重なり、流しには数日前に使った皿やコップが残っている。カーテンを開けても、隣の建物の灰色の壁しか見えなかった。


冷蔵庫には卵一個と、賞味期限の切れた牛乳が入っていた。北斗は米を炊くのが面倒になり、棚からカップ麺を取り出した。湯を注いで三分待たずに蓋を開けると、麺はまだ硬く、粉末スープが底に固まっていた。


「また、これか」


北斗は割り箸で麺をかき混ぜた。以前は観月が卵焼きとみそ汁を用意し、前夜の残り物まで別の料理に作り替えていた。味が薄い、肉が小さいと文句を言っても、翌朝には新しい食事が食卓へ並んだ。


机には慰謝料の支払予定表、カードローンの明細、証券会社から届いた請求書が重なっていた。北斗は借金を整理するため、使いかけのノートを開いた。家賃、公共料金、食費、日用品、慰謝料を一つずつ書き出していく。


米五キロの値段も、洗剤が何日でなくなるのかも、北斗は知らなかった。弁当を毎日買えば一万円以上かかり、朝食と夕食まで外で済ませれば、三万円では自分一人の食費さえ足りない。観月が足りない分を出していたことを、北斗はようやく数字として理解した。


家事代行サービスの料金も調べた。掃除、洗濯、料理を頼めば、毎月かなりの金額になる。観月はそれらを行いながら、自分で税金と保険料を支払い、北斗の酒やクリーニング代まで生活費から出していた。


「三万円も渡していたのに」


北斗はつぶやいたが、ノートの数字は小さくならなかった。観月へ渡した三万円より、北斗が時計へ支払っていた月四万円のほうが多い。妻の下着に千二百円を使うことさえ許さず、自分は十八万円のゴルフクラブを買った。


カップ麺の汁がスウェットへ飛んだ。北斗は布巾を探したが見つからず、残り少ないティッシュで押さえる。観月がすぐに濡れた布を持ってきたことも、北斗には当たり前のことだった。


「寄生していたのは、俺のほうだったのか」


その言葉を聞く者は、もう誰もいなかった。気づくのが遅かったからといって、観月に戻る義務はない。北斗は伸びた麺をすすり、返済予定が並ぶノートへ目を落とした。


同じ朝、観月は新居の窓を開けていた。白いシャツに柔らかなベージュのパンツを合わせ、髪を後ろで軽くまとめている。冬の冷たい風と一緒に、近所のパン屋から小麦とバターの匂いが入ってきた。


朝食はチーズトーストとスクランブルエッグだった。レタスとミニトマトも小皿へ盛り、深煎りのコーヒーへ牛乳を少し加える。誰かへ大きいほうを譲らず、自分が食べたい量だけを用意した。


冷蔵庫の扉には、澄江からのメモが磁石で留められていた。次に来るときは土鍋を持参し、三人で水炊きをしようと書かれている。その下には正志の字で、鶏肉より豆腐を多めにしてほしいと付け足されていた。


観月は食べ終えた皿を洗い、南向きのトレードルームへ入った。遮光カーテンの隙間から朝の光が差し、机に置いたコーヒーから白い湯気が上がっている。三台のモニターを起動すると、寄り付き前の気配値とニュースが表示された。


買い注文を集めている銘柄があったが、観月はすぐに飛びつかなかった。決算資料を読み、売買板の動きを確かめる。条件に合わないと判断すると、その銘柄を監視対象から外した。


「今日は買わない」


買わないことも、資金を守るための立派な判断だった。結婚生活についても同じである。耐え続けることだけが努力ではなく、自分の生活と体を守るために撤退することも必要だった。


午前九時、取引開始を告げる数字が動き始めた。観月は冷める前のコーヒーを一口飲み、椅子へ深く座り直した。北斗を起こす必要も、弁当を作る必要も、怒鳴り声へ耳を澄ませる必要もない。


「今日も、私の判断で始めよう」


この先、観月を見下す人が一人も現れないとは限らない。それでも、誰に何を言われても、自分の価値を相手へ明け渡す必要はなかった。観月は自分で選んだ椅子に座り、自分の名前で開いた口座と、自分のために始まる朝へ向き直った。


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