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第8章 満ちていく月の夜に


 その夜、紗江は仕事帰りにふと足が向き、Dolce Mare の重厚な扉を押した。

 店内は柔らかな間接照明がゆらぎ、ワイングラスの縁が静かに輝いている。窓の外には海風が運ぶ春先の冷気。紗江は一人、奥の席に腰を下ろした。


「今夜はおひとりですか?」

海が微笑む。落ち着いたバリトンの声が心地よかった。


「はい。ちょっと、自分にご褒美を」

そう言うと海は嬉しそうにうなずき、ワインリストを差し出した。


 グラスがテーブルに置かれ、淡く輝く白ワインが照明を反射する。

ひと口含むと、柑橘の香りがふわっと広がった。


 ちょうどその時、スマホが小さく震えた。


――今、どこにいます?

――Dolce Mareと言うフレンチレストランのお店にいますよ。


 送ってすぐ、既読がつく。


――これから行きます。そこでお会いしましょう。


 胸がきゅっと熱を帯びた。


 数分後、扉のベルが鳴る。

田島が店に入ってきた。黒いコート越しの風の匂い。紗江を見つけると、ふわりと表情が和らいだ。


「お疲れさま。ここに来ていたんですね」


「はい。なんとなく…この店の空気が恋しくて」


 海が間に入り、ワインリストを手に田島へ説明を始めた。


「こちらは季節の白で、魚介料理に合わせてご用意しています。香りは柔らかく…」


 紗江は、海の丁寧な言葉と田島の静かな頷きを眺めながら、胸の奥が温かくなるのを感じた。


 その頃、厨房では三上が黙々と皿を仕上げていた。

 海が田島の席にワインを置くのを見て、三上は無意識に視線をそちらへ向ける。

 窓際の席で向かい合う二人。

 田島が紗江に微笑み、紗江も照れたように笑う。


 胸の奥に、きゅう、とした痛みが走った。


(……どうして、俺はこんな気持ちに)


 三上は知らず手が止まり、慌てて作業に戻る。料理人としての自負に、よく分からないざわつきが混じる夜だった。


 やがて三上の作った一皿が海の手で田島たちのテーブルへ運ばれていく。

 それを見送りながら、三上の胸には説明できない波紋が広がっていた。


 食事を終え、紗江と田島はグラスを傾けながら静かに見つめ合った。

店内の灯りが二人を包み込み、時間がゆっくりと溶けていく。


「この後、どうします?」

田島が囁くように言う。


「少し…飲み直したいです」


「じゃあ、いつものBARへ」


 会計を済ませた田島は、「タクシー拾ってきます」と先に外へ出ていった。


 紗江が身支度を整えていると、海が声をかける。


「今夜は素敵でしたね、お二人」


「ありがとうございます。料理も、とても美味しかったです」


 そこへ、キッチンから三上が姿を現した。

白衣のまま、丁寧に頭を下げる。


「本日もご来店ありがとうございました。……お連れ様は旦那様ですか?」


「えっと…彼は、お付き合いしている方です」


 一瞬、三上の顔に影が落ちた。

しかしすぐに整えられた表情で、


「そうでしたか。……素敵な夜をお過ごしください」


と言い、静かに厨房へ戻っていった。


 海が扉を開けて送り出す。


「またお待ちしています。紗江さん」


「こちらこそ。ご馳走さまでした」


 外に出た瞬間、夜風が頬を撫でた。微かに潮の香り。

満月が空に浮かび、冬の名残を照らしている。


 田島がタクシーの横で紗江を見つけて笑った。

紗江は小走りで彼の元へ向かう。


 胸の奥で、ゆっくりと――

またひとつ、恋が満ちていく音がした。


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