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第9章 オレンジハートムーンの微笑み


 田島と紗江はDolce Mareを後にし、夜の街を抜けてタクシーでいつものBARへ向かった。車窓の外には、春の気配を含んだ風に押されるように雲が流れ、その隙間から満月が顔を覗かせている。


 BARに入ると、落ち着いた照明と低く流れる音楽が二人を包んだ。カウンター席に並んで腰を下ろし、紗江はオレンジハートムーン、田島はウィスキーのロックを注文する。グラスが置かれ、二人は自然と視線を重ねた。


「乾杯しましょうか」

「ええ」


 軽くグラスを合わせ、ゆっくりと口をつける。甘く香るオレンジハートムーンが喉を通り、紗江は少しだけ肩の力が抜けるのを感じた。


 外を見やると、満月が静かに輝いている。紗江は意を決したように田島へ視線を戻した。


「田島さん、ツアーが始まったら……私と会う時間は、取れますか?」


 一瞬、空気が止まった。グラスの氷がかすかに鳴る音だけが響く。


「……可能な限り、連絡しますよ」


 その言葉に、紗江の胸に温かい安堵が広がった。


「無理のない程度で大丈夫です。連絡いただけたら、それで嬉しい」

「分かりました」


 二人はそれ以上言葉を重ねず、互いのグラスを見つめたまま、今の気持ちを静かに確かめ合う。


「今日……こんなふうに会いに来てくれるなんて思わなかったから」

 紗江は照れたように微笑む。

「私、すごく嬉しくて……」


 その瞬間、カウンターの下で指先が触れた。驚くほど自然に、二人の手は絡まり、体温が伝わる。紗江の胸が高鳴る。田島は一瞬だけ彼女の表情を確かめるように見つめ、柔らかく笑みを返した。


 それは、恋に落ちた瞬間だった。

 懐かしく、切なく、甘くて脆い感情。紗江はその想いを、オレンジハートムーンと一緒にそっと飲み込んだ。


 やがて話題はツアーのことへ移る。リハーサル、舞台構成、音の作り方。紗江にとっては新鮮で、同時に彼が遠い世界の人に思えてしまう。


(私、同じ空気に触れていていいのかな……)


 そんな不安がよぎる。それでも隣にいるのは、確かに一人の人間として向き合っている田島貴男なのだと、自分に言い聞かせた。


 三杯目を飲み終える頃、紗江はすっかり酔いが回っていた。田島はそっと彼女を気遣うように言う。


「そろそろ、帰りましょう」


 紗江は田島の手を強く握った。

「今夜は……ずっと一緒にいて」


 田島は戸惑い、言葉を探す。

「離れたくないの」


 少しの沈黙の後、

「……分かりました」


 そう答えた田島の声は、穏やかだった。飲み干したオレンジハートムーンが、紗江に勇気をくれた気がした。


 外へ出ると、春の夜風が二人の間をすり抜ける。満月が静かに微笑んでいた。


 タクシーを拾い、二人はBARを後にする。

 行き先は――紗江の部屋。


 恋は、もう後戻りできないところまで、静かに進み始めていた。

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