第50章 揺らぐ心
仙台に来てから、季節はゆっくりと移ろい、街には秋の気配が漂い始めていた。
午後の柔らかな陽射しが差し込むオフィス。
紗江がデスクに置かれた書類へ手を伸ばした、その時だった。
――♪♪♪
LINEの通知音。
何気なく携帯を手に取った紗江の指が止まる。
画面に表示された名前は――三上。
胸が大きく跳ねた。
慌ててLINEを開く。
――お元気ですか? ずっと忙しく、連絡が遅くなってしまいました。
紗江は一度深呼吸してから返信した。
――お久しぶりです。私は元気です。ご活躍を風の噂で知り、とても嬉しく思っていました。
ほどなくして返信が届く。
――ありがとうございます。紗江さん……急ですが、今週の日曜日に仙台に伺っても大丈夫ですか?
――日曜日ですか? 予定は空いているので大丈夫です。
――急ですみません。後で……電話しますね。
――了解しました。
携帯をデスクに置いた瞬間、紗江の胸の奥から、忘れたはずの感情が静かに顔を覗かせた。
引き出しを開ける。
そこには、田島との二人の写真。
紗江は写真を見つめたまま、しばらく動くことができなかった。
そして――日曜日。
秋の風が吹く仙台駅。
新幹線改札口の前で、紗江は落ち着かない様子で何度も時計を確認していた。
やがて、大勢の乗客の向こうから声が響く。
「紗江さん! こっち!」
顔を上げる。
三上が、微笑みながら立っていた。
その懐かしい姿を見た瞬間、紗江の目に涙が滲む。
「紗江さん……お元気そうで」
「……三上さんも」
紗江は慌ててハンカチで目元を押さえた。
「紗江さん……何か、きれいになりましたね」
「えっ?」
「そういう三上さんこそ……雰囲気がすっかり変わって」
二人は照れくさそうに笑った。
「今日は私がおもてなししますからね」
「ははっ。無理しない程度にお願いします」
タクシーに乗り込むと、紗江は運転手に告げた。
「晴れの日までお願いします」
車窓を流れる秋色の仙台を眺めながら、紗江はバッグから一枚のハンカチを取り出した。
「これ……」
「……あのLIVE日の?」
「東京駅を出る時に返そうと思っていたのに、忘れてしまって。ごめんなさい」
「そんな……気にしなくていいのに」
「私は、このハンカチに救われたんですょ。笑」
三上は懐かしそうに笑った。
「……そんな時もありましたね」
二人は東京で過ごした時間を、まるで昨日のことのように語り合った。
やがて到着した「晴れの日」は、石巻から仕入れた新鮮な魚介を楽しめる個室居酒屋だった。
料理とお酒を囲みながら、紗江は微笑む。
「三上さんに下手なものは出せないので、吟味しましたょ〜」
「そんなに気を使わなくていいのに」
「だって三上さん、もうミシュランシェフですょ!」
三上が笑った。
その時、ふと紗江の左手に視線を落とす。
「……紗江さん、その指輪。婚約指輪ですか?」
「えっ……? えっと……」
「僕は――」
そこへ店員が飲み物を運んできた。
紗江は戸惑いを隠すようにグラスを持ち上げる。
「とりあえず……乾杯しましょ」
「そうですね」
「再会と……三上さんの成功に」
「乾杯」
グラスが静かに重なった。
食事の後、三上は紙袋を紗江に差し出した。
「今、コースで出しているデセールです。紗江さんの口に合うか分かりませんが……」
「ありがとうございます。三上さんのデザート、久しぶりだから嬉しい」
紗江も紙袋を差し出した。
「私も三上さんに渡したい物があって。仙台って笹かまのイメージだけど、『ムー』っていうお土産があって……これ、美味しいんです。私のセンスで。笑」
「ありがとうございます。紗江さんは……相変わらず素敵な女性ですね」
「……素敵だなんて」
二人は笑い合った。
その笑顔は、昔と何も変わらなかった。
食事を終え、紗江がふと思いついたように言う。
「これから青葉山に行きませんか? 伊達政宗の銅像があるところ。今なら夜景も見られるし……」
「いいですね。夜景……行きましょう」
タクシーを降りると、夜の青葉山は静かな風に包まれていた。
展望台から見える仙台の街は、無数の光が宝石のように瞬いている。
「……素敵な場所ですね」
「七夕祭りになると、あそこに短冊が飾られるんですょ」
紗江が指差す。
その時、三上が静かに口を開いた。
「紗江さん……東京駅を出る時、僕に何か言いましたよね」
紗江の表情が固まる。
「あ……アメリケヌソースの話ですよね!」
「違います」
三上は紗江を真っ直ぐ見つめた。
「紗江さんも……僕が好きだと言いましたよね」
「えっ……」
次の瞬間、三上は紗江の腕を引き寄せた。
「紗江さん。今なら自信を持って言える」
真剣な瞳。
「僕の方が、あなたを幸せにできる。……田島さんと結婚しないで欲しい」
「えっ……ちょっと待ってください」
紗江は三上から離れた。
「僕は、紗江さんにプロポーズをしに来ました。何度も諦めようとしました。でも……できませんでした」
胸が激しく鼓動する。
「そ、そんなこと急に言われても分かりません……。ほ、保留でお願いします」
「……分かりました」
三上はそれ以上何も言わず、夜景へ視線を戻した。
紗江は自分の胸に手を当てる。
――私は、何をしているの?
田島と婚約したばかりなのに。
それなのに、どうして心が揺れるの――。
しばらくして三上が振り返った。
「また……会いに来てもいいですか?」
紗江は小さく頷いた。
「……はい」
二人は青葉山を後にし、仙台駅へ向かった。
改札口で、三上は紗江の手を握った。
「僕……もう遠慮はしませんから」
その眼差しには、本気と覚悟が宿っていた。
「……また、連絡ください」
それが、今の紗江に言える精一杯の言葉だった。
三上は改札を抜け、新幹線乗り場へと消えていく。
その背中を見つめながら、紗江は立ち尽くした。
秋の夜風が頬を撫でる。
そして胸の奥で、二つの愛が静かに揺れていた――。
♡読者の皆さまへ♡
「オレンジハートムーン♡」は、本編が完結しました。
ここまで読んでくださった皆さま、本当にありがとうございました✨
そして――物語は、もう少しだけ続きます。
本編では描ききれなかったその後を、エピローグとしてお届けする予定です。
最後のページまで、もう少しだけ「オレンジハートムーン♡」の世界にお付き合いいただけたら嬉しいです。
どうぞ楽しみにお待ちください✨




