第47章 新しい旅立ち
翌朝――。
三月のやわらかな陽射しがカーテン越しに差し込み、静かな部屋を淡く照らしていた。
紗江はキッチンに立ち、ゆっくりと二人分のコーヒーを淹れる。立ち上る香りに包まれながら、この部屋で迎える最後の朝なのだと思うと、胸の奥が少しだけ熱くなった。
テーブルについた田島は、いつになく落ち着かない様子でコーヒーカップを手に取っては置き、時計へ視線を向けている。
「見送りはここで良いから。色々弊害もあると思うし。仙台と東京は近いから週末にお互い都合の良い時に会いましょう」
「……分かった」
そう答えた田島は少し黙り込み、照れくさそうに微笑んだ。
「紗江、左手出して」
「えっ? 左手?」
紗江が不思議そうに左手を差し出すと、田島はポケットから小さな指輪ケースを取り出した。
静かにケースが開く。
そこには、小さなダイヤモンドが柔らかな光を受け、上品な輝きを放っていた。
田島は紗江の左手を優しく包み込むと、その薬指へゆっくりと指輪を通す。
「これ、先日プロポーズした時渡そうとした指輪。これで君は俺のカミさん予約だ」
一瞬、紗江は言葉を失った。
薬指に伝わる小さな重みが、二人で歩んでいく未来を約束してくれているようだった。
「ありがとう……」
嬉し涙を浮かべながら田島へ抱きつく。
田島も何も言わず優しく抱きしめ、その温もりを確かめるように背中へ手を添えた。
二人の鼓動だけが静かな部屋に響く。
やがて田島は紗江の頬へそっと触れ、優しく唇を重ねた。
短い口づけだった。
それでも紗江の胸には、言葉では伝えきれない想いが静かに溢れていた。
「着いたら連絡するね」
「分かった、夜に又……オンラインで話そう」
互いに微笑み合い、紗江は荷物を持って玄関へ向かう。
田島も一緒に玄関へ出る。
「下にタクシー呼んであるから……」
「ありがとう、身体に気をつけてね」
「お互いにな……」
紗江はもう一度だけ田島へ抱きついた。
離れたくない。
そんな気持ちを胸にしまい込み、ゆっくりと部屋を後にする。
扉が閉まる瞬間――。
「Good luck」
田島らしい照れ隠しの言葉に、紗江は思わずクスッと笑った。
エレベーターを降り、待っていたタクシーへ向かう。
その時だった。
「紗江っ!」
聞き慣れた声に顔を上げる。
ベランダでは田島が大きく手を振っていた。
「行って来るね〜っ!」
紗江もその場で、大きく手を振り返す。
タクシーはゆっくりと走り出した。
田島は紗江の乗ったタクシーが街角へ消えていくまで、いつまでもベランダに立ち続けていた。
胸をよぎる寂しさを隠すように、小さく息を吐く。
一方、紗江はバッグから新幹線の切符を取り出し、薬指に輝く指輪をそっと見つめる。
思わず笑みがこぼれた。
イヤホンから流れるOriginal Loveのメロディーが、これから始まる新しい人生を優しく包み込んでくれていた。
東京駅へ到着し、東北新幹線ホームへ向かう。
「紗江さんっ!」
声のする方を見ると、三上、海、そして会社の部下たちが笑顔で立っていた。
「課長〜、遅いから心配になりましたょ!」
澤口の言葉に紗江は笑いながら頭を下げる。
「ごめんね。皆さんっ! 今日は忙しい中見送りに来てくれてありがとうございます」
部下の一人が笑顔で言う。
「待ってますのでいつでも帰って来て下さい」
ホームは温かな笑いに包まれた。
紗江は海と三上の前へ歩み寄る。
「色々……お世話になり本当にありがとうございました」
三上は首を横に振った。
「何か……最後の挨拶みたいだから辞めて下さい」
そう言って紙袋を差し出す。
海も優しく微笑んだ。
「二人でこの日の為に特別作ったんです」
「ほ……本当に?ありがとうございます」
紗江の瞳から涙が零れる。
三上は照れくさそうに笑いながら続けた。
「仙台迄遊びに行きますし、お店にも来て下さい」三上
「勿論ですっ!」紗江
その時、仙台行き新幹線が静かにホームへ滑り込んできた。
部下たちは澤口へ弁当とお茶を手渡し、紗江は何度も頭を下げながら車内へ乗り込む。
席へ着き、紙袋の中にあった封筒を開く。
そこには、たった一行だけ。
――ずっとあなたが好きでした。元気でいて下さい――三上
胸が締めつけられた。
思わずホームを見る。
三上と目が合う。
発車ベルが鳴り響く。
「三上さん……」
紗江は衝動的にデッキへ走った。
三上も何かを悟ったようにドアの前へ駆け寄る。
閉まりゆくドア。
ほんの数秒だけ残された時間。
「三上さん、私も好きでした!」
その想いはホームへ響き渡り、ドアは静かに閉まった。
三上は優しく微笑み、見えなくなる最後の瞬間まで手を振り続ける。
――聞こえたのだろうか。
答えは分からない。
新幹線はゆっくりと仙台へ向かって走り始めた。
紗江は閉ざされたドアへそっと手を添える。
薬指の指輪が小さく光る。
田島への愛。
三上への想い。
二つの大切な気持ちを胸に抱えながら、流れ落ちる涙はいつまでも止まらなかった。




