第46章 交差する人生
あの夜、紗江はまだ知らなかった。
自分が何気なく踏み出した一歩が、田島の人生だけでなく、三上の運命までも大きく変えていくことを――。
Amber Moonでの告白から数日。
紗江と田島の間には、どこか微妙な距離が生まれていた。
決して関係が壊れたわけではない。けれど以前のように気軽なやり取りは減り、紗江の胸には小さな不安が居座り続けていた。
東京を離れる前日。
どうしても気になった紗江はスマートフォンを手に取った。
『元気にしてますか? あの日から連絡ないから心配してる』
数分後。
『ah〜、こちらはOK』
短い返事に少しだけ安心する。
『明日、仙台に行くの。話したい事があるから会える?』
『今日は夜なら大丈夫』
『じゃあAmber Moonで20時、大丈夫?』
『了解です』
その文字を見た瞬間、紗江は小さく息を吐いた。
会える――。
それだけで胸のつかえが少し軽くなった。
その後、紗江は会社へ向かった。
お世話になった部署の人達へ焼き菓子を配り、一人ひとりに挨拶をして回る。
「課長、本当にありがとうございました」
「仙台でも頑張って下さい!」
温かな言葉が次々とかけられる。
最後は大きな拍手に包まれながら見送られた。
その時だった。
「課長、これからもよろしくお願いします。ふふっ」
振り返ると澤口が立っていた。
「澤口はさぁ、いつ東京出るの?」
「明日です。課長と同じ新幹線で、お隣の席なので私が全て手配させて頂きました」
そう言って差し出された切符を見て、紗江は思わず目を丸くする。
「住む所は決まってるのかな〜?」
「はい。課長のお隣のお部屋ですっ!」
満面の笑みだった。
紗江は額に手を当てる。
(恐るべし澤口……)
笑うしかなかった。
会社を後にした紗江は、その足でDolce Mareへ向かった。
重厚な扉を開いた瞬間、潮風を思わせる優しい香りが迎えてくれる。
まるで故郷へ帰って来たような安心感だった。
「紗江さん……いらっしゃいませ。お待ちしていましたょ」
海が柔らかな笑顔で近づいて来る。
「ごめんなさいね。ご挨拶が遅くなって」
紗江は焼き菓子を手渡した。
「今日が最後の食事になるの。ディナーコースでお願いします」
「かしこまりました」
カウンター席へ案内される。
「食前酒はお任せします」
海が厨房へ戻ると、今度は三上がワイングラスを持って現れた。
「おたるのナイヤガラスパークワインです。紗江さん、おつかれさまでした」
淡い琥珀色のワインが照明を受けて輝いていた。
「ありがとうございます。明日仙台へ行くので、最後のご挨拶に来ました」
三上は少しだけ寂しそうに微笑む。
「最後なんて悲しい事言わないで下さい。これからも私達は良き友達ですから」
その言葉に紗江の胸が温かくなった。
「明日、見送りに行きます。出発時間をLINEで送って下さい」
「忙しいのにありがとうございます」
三上は静かに頷き、厨房へ戻って行った。
紗江はゆっくりと食事を楽しんだ。
この店で過ごした数々の時間。
海との会話。
三上の優しさ。
その全てが愛おしかった。
そして夜八時。
紗江はAmber Moonへ向かった。
黒い扉の向こうでは、JAZZとSoulが柔らかく溶け合い、棚に並ぶグラスを間接照明が宝石のように照らしていた。
「オレンジハートムーンをお願いします」
グラスを傾けながら田島を待つ。
一口。
二口。
胸の鼓動が少しずつ早くなる。
その時だった。
カラン――。
扉のベルが鳴る。
振り返ると田島が立っていた。
「待たせたな」
いつもの無造作な笑顔。
紗江は思わず笑みを浮かべた。
田島は隣に腰を下ろし、ウイスキーのロックを注文する。
「話って何だ?」
紗江は少しだけ視線を落とした。
「結婚の事なんだけど……」
「ん〜……」
「婚約じゃダメかな?」
田島の表情が止まる。
「えっ?」
「二〜三年したら東京に戻って来るから。その時じゃダメかなって……」
沈黙。
けれど田島はゆっくり頷いた。
「まぁ……紗江がそれで良いなら構わないょ」
「本当に?」
「あぁ」
紗江の目が潤む。
「ありがとう……」
「焦る必要なんてねぇだろ」
優しい声だった。
テーブルの下で、二人の手がそっと重なる。
指先から伝わる温もり。
それだけで十分だった。
その夜、二人は田島の部屋で東京最後の時間を過ごす。
窓の外では、オレンジ色の満月が静かに輝いていた。
まるで二人の未来を見守るように――。




