第45章 Amber Moonでの告白
ライブ会場の熱気がまだ残る楽屋裏で、田島は急ぎ足で帰り支度を整えていた。
スタッフ達が慌ただしく行き交う中、彼はふと振り返り、紗江を見つめる。
「先にAmber Moon行っててくれ。俺、少しだけやる事残ってるから」
その声は優しかったが、どこか落ち着かない響きを含んでいた。
「分かった」
紗江は小さくうなずき、スタッフに案内されながら会場裏口へ向かった。
外へ出ると夜風が頬を撫でる。用意されていたタクシーのドアが静かに開き、紗江は吸い込まれるように乗り込んだ。
「Amber Moonまでお願いします」
車が走り出す。
窓の外では、都会のネオンが雨上がりの道路に滲み、まるで揺れる宝石のように流れていく。
紗江はスマートフォンを開き、サブスクに保存していた田島の曲を再生した。
耳に流れ込む低く甘い歌声。
その度に胸が締め付けられる。
――どんな風に伝えたらいいんだろう。
考えるのは、そればかりだった。
仙台への転勤。
突然決まった異動。
田島の夢を応援したい気持ちと、自分の人生を進めなければいけない現実が、胸の中で静かにぶつかり合っていた。
ふと、ルームミラーに自分の顔が映る。
気づけば涙が頬を伝っていた。
「……」
紗江は慌ててバッグから、三上に渡されたハンカチを取り出す。柔らかな布に涙を押し当てた瞬間、
「お客さん、着きましたよ」
運転手の声で我に返った。
紗江は小さく息を整え、タクシーを降りる。
目の前には、見慣れた黒い扉。
Amber Moon――。
扉を開けると、いつもと変わらぬ空気が紗江を包み込んだ。
柔らかなJAZZとSoul。
琥珀色の間接照明。
棚に並ぶグラス達が、まるで夜空の星のように静かに輝いている。
紗江はカウンター席へ腰を下ろした。
「オレンジハートムーンをお願いします」
「かしこまりました。今日はお一人ですか?」
マスターが穏やかに問いかける。
「後で連れが来る予定です」
「では、お隣は空けておきますね」
「……お願いします」
差し出されたカクテルは、夕焼けを閉じ込めたようなオレンジ色だった。
紗江はグラスをそっと持ち上げ、一口含む。
甘さの奥に、少しだけ苦味が残る。
二口目を飲みかけた時だった。
カラン――。
扉のベルが静かに鳴る。
視線を向けると、そこには田島が立っていた。
黒いジャケットを肩に掛け、少し疲れた顔で笑っている。
「待たせた」
彼は自然に紗江の隣へ腰を下ろした。
「ウィスキー、ロックで」
「かしこまりました」
グラスが用意されるまでの短い沈黙。
田島はふっと苦笑する。
「悪かったな。別行動になって」
「大丈夫。貴方は、人気者ですから」
「人気者って……」
困ったように眉を下げる田島が、どこか愛おしい。
「でも、本当にかっこよかった。惚れ直した」
「……え、本当に?」
その瞬間、マスターがロックグラスを差し出した。
二人は顔を見合わせ、小さく笑う。
「今日の夜に――」
「乾杯」
グラスが軽やかな音を立てた。
「二人で飲むの、久しぶりね」
紗江が呟くと、田島は急に真面目な顔になる。
「今日は……話がある」
「えっ」
紗江の鼓動が跳ねた。
「わ、私も話があるんだけど」
「え? そっちも?」
「何か調子狂うな……」
「こっちこそ狂うわ」
互いに探り合うような空気が流れる。
その沈黙に耐え切れず、紗江は笑いながら言った。
「じゃあさ、先に全部飲み干した方が後に言うってことで!」
「何そのルール!」
「いいから!」
「……分かった」
田島が指を鳴らす。
「Ready go」
二人は同時にグラスを傾けた。
先に飲み干したのは田島だった。
「ははっ、本当にお前って面白いな」 田島
「別にこんなことしなくても良かったかも…。」
「じゃあ、本題どうぞ」 紗江
「うっ……」
急に田島が言葉を詰まらせる。
珍しく視線を泳がせた後、意を決したようにポケットから小さな箱を取り出した。
「あのさ……これを機に、俺の嫁さんになってくれないか?」
カチリ、と指輪ケースが開く。
紗江の呼吸が止まった。
(え……えぇぇっ⁈)
頭が真っ白になる。
だが次の瞬間、田島が首を傾げた。
「……あれ? 嬉しいよな? 何で困った顔してる?」
紗江は唇を震わせた。
「わ、私の話って……転勤のことなの」
「……は?」
田島の表情が固まる。
「仙台に……三月後半から」
「ちょ、待て待て待て。三月後半ってもうすぐじゃないか!」
珍しく取り乱す田島に、紗江は視線を落とす。
「もう決まったことなの……」
「事後報告かよ……」
二人の声が、静かな店内に小さく響く。
見かねたマスターが苦笑しながら水を差し出した。
「お二人とも、少し落ち着きましょうか」
その時、紗江は窓の外へ目を向ける。
夜空には、大きな満月。
琥珀色の月明かりが、街路樹を静かに照らしていた。
田島の想い。
紗江の決意。
二人の未来は今、交差点に立っていた。




