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第43章 大事な瞬間


三月。

新しい始まりと別れの気配が、街の空気に静かに混ざり始めていた。


田島の全国ツアーはすでに中盤に差しかかり、連日のリハーサルと本番で彼の時間は埋め尽くされている。

そしてその東京公演の翌日——紗江にとっても、ひとつの節目となる日が訪れていた。


前日、紗江はDolce Mareで三上と軽い打ち合わせを済ませていた。

その余韻を胸に残したまま、彼女は朝、近所の花屋で予約していた花束を受け取る。


淡い色合いの花々。

派手すぎず、けれど想いはしっかりと込めた選択だった。


「久しぶりのライブか……」


高校生の頃以来の高揚感が、胸の奥で小さく弾ける。


その時、スマートフォンが震えた。


——もしもし、紗江さん?今どちらですか?——


「これから家を出るところです」


——じゃあ、例の駅でお待ちしています——


「了解です。また後で」


通話を切り、紗江はコートの襟を整える。

今日はヒールではなくスニーカー。動きやすさと、ほんの少しの緊張逃れ。


駅に着くと、三上はすでに入口付近に立っていた。


「三上さんっ!」

「僕も今来たところです」


柔らかく微笑む三上。

その自然さに、紗江は少しだけ気持ちがほぐれる。


並んで歩き出す二人。


「なんか……寂しいな」

「何がですか?」

「こうやって歩くの、しばらくなくなるのかなって」


紗江は一瞬だけ言葉を選び、軽く笑った。

「仙台、来てくれるんでしょ?」

「行きますよ。ご迷惑でなければ毎月でも。」

「毎月は多いでしょ」

二人は同時に笑った。


会場周辺はすでに熱気に包まれていた。

人、人、人。期待と興奮が渦巻いている。


「こんなに人気なんだ……」 紗江

「アーティストだからね」 三上


三上は近くのカフェを指差す。

「少し時間ありますし、あそこで」


店内の落ち着いた空気の中、二人はカウンターに座る。

温かい飲み物を手にした瞬間、三上がふと視線を落とした。


「その花束……彼に?」

「はい。終演後楽屋で渡す予定です」


そして、少し間を置いて続けた。

「その時、転勤の話も…。」


三上の目がわずかに揺れる。

「まだ、伝えてないんですね」

「中々タイミングがなくて……」


短い沈黙。

三上は何かを言いかけて、やめた。


やがて時間が近づき、二人は席を立つ。


会場へ入ると、スタッフに止められた。

「少々お待ちください」


現れたのはツアースタッフ。

丁寧に一礼し、静かに言う。


「関係者席へご案内いたします」


案内されたのは前列中央。

ステージがすぐ目の前に広がる特別な席。


「すごいですね……」

「私も驚いてます」


一方、その頃——


控室で田島はコーヒーを手にしていた。

いつもとは違う緊張が、胸の奥に重く沈んでいる。


(今日、伝える——)


その思いだけが、頭の中で何度も繰り返されていた。


「関係者の方、ご案内終わりました」

「……ありがとう」


時計を見る。

開演まで、あとわずか。


やがて、照明が落ちた。


暗闇の中、歓声が波のように押し寄せる。

スポットライトが点き、田島の姿が浮かび上がる。


一音目。

ギターが空気を切り裂く。


♪夜明け過ぎの二月の雪——

きみの部屋を見上げ続けた♪


紗江は息を呑んだ。

「プライマル……」


自然と口ずさむ。

同時に、記憶が溢れ出す。


あの日の会話、視線、空気。

すべてが一瞬で蘇る。


♪君にいつまでも見とれていたい

何もいらないよ 君を愛しているよ—— 心の底から♪


サビに入った瞬間、涙が頬を伝った。


三上はその横顔を見つめる。

何も言わず、そっとハンカチを差し出した。


ステージでは田島が歌っている。

ただ歌っているだけなのに、その声はまっすぐ紗江に届いていた。


会場の熱気が一気に上がる。

歓声、拍手、光。


そのすべての中で——


紗江は、自分の気持ちがどこへ向かっているのか、

まだ言葉にできずにいた。

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