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第42章 次へのステージ


田島は、三月からスタートする全国ツアーのリハーサルに明け暮れる日々を送っていた。

スタジオにはアンプの低い唸りと、ドラムのリズムが絶え間なく響く。


今回はライブの演出や舞台プロデュースの一部も任されており、アーティストとしてだけでなく、ひとつの舞台を創り上げる責任が肩に重くのしかかっていた。


「もう一度、頭からいこう」


田島の声がスタジオに響く。

スタッフもミュージシャンも、その真剣な表情に引き締まった空気をまとっていた。


——次のステージへ。


その言葉が、田島の胸の奥で静かに燃えていた。


一方、紗江もまた忙しい日々を送っていた。


四月からの仙台転勤に向けて、オフィスでは引き継ぎが本格的に始まっている。

デスクの上には書類の山。

パソコンの画面にはスケジュール表がびっしりと並んでいた。


休日も、引っ越しの準備でほとんど家の中。


段ボール箱が部屋の隅に積み重なっていく。


そのせいもあり、Dolce Mareに足を運ぶ回数は自然と減っていた。


そして——三上。


彼もまた、静かな緊張の日々を送っていた。


とある平日の夜。

Dolce Mare の扉が静かに開き、一組の男女が店内に入ってくる。


ホールに立っていた海は、その瞬間に気づいた。


胸が一瞬だけ高鳴る。


海はすぐに厨房へ入り、小声で三上に伝えた。


「三上さん……来ましたよ。ミシュランです」


包丁を握っていた三上の手が、ほんのわずかに止まる。


「……分かった。いつも通りに行こう」


落ち着いた声だった。


「分かりました」


海は頷くと再びホールへ戻る。


三上は深く息を吸い込み、目の前の食材に向き直った。


——評価の瞬間は、いつ来るか分からない。


それでも、やることはひとつ。


ただ、料理に向き合うだけだった。


⸻


三人の行く先は、それぞれ別の方向へと進み始めている。


それが幸せへ続く道なのか——


紗江は、休憩時間のデスクでコーヒーを飲みながら、ふとそんなことを考えていた。


何気なく引き出しを開ける。


すると、封筒が目に入った。


中には——

田島から渡された、二枚のライブチケット。


紗江はそのチケットを手に取り、静かに見つめる。


——楽屋で、何か大事な話をされるのだろうか。


そんな考えが頭をよぎった、その時だった。


「課長〜」


柔らかな声と共に、澤口がデスクの横に立っていた。


「送別会の件なんですけど、来週あたりどうですか?」


「えっ?送別会?」


「はい。部署で企画して、居酒屋でやろうって話になってまして」


紗江は少し驚きながらも笑った。


「ありがとう。私は大丈夫よ。あなた達に任せるから」


「了解しました。日時と場所が決まったらお伝えしますね」


「分かった」


澤口は「はいっ」と軽く頷き、数歩、歩いてからふと振り返る。


「課長……」


「ん?」


澤口はいたずらっぽく笑った。


「私も、お供する事になりましたから」


「えっ?」


「ふふっ……私も一緒に仙台行くんです。サポートとしてっ!」


そう言うと、澤口は自分のデスクへと軽やかに戻っていった。


「えっ……えっ〜?」


紗江はしばらく呆然としたまま、椅子に座っていた。


——恐るべし……澤口。


胸の中で、そう呟く。


やがて定時を迎え、紗江は久しぶりにDolce Mareへ足を運んだ。


重厚な扉を押し開ける。


店内には、落ち着いた照明と穏やかな空気が広がっていた。


——帰ってきた。


紗江は胸の奥でそう呟く。


すぐに海が気づき、微笑みながら近づいてきた。


「こんばんは、紗江さん。今日はお一人ですか?」


「ええ」


「今、カウンター席しか空いていないのですが大丈夫ですか?」


紗江は静かに頷いた。


席に案内され、メニューを開く。


「今日はどうなさいますか?」


「ディナーコースでお願いします」


「かしこまりました」


海は厨房へ入り、やがてグラスワインを運んできた。


「本日のワインは、リステル・フルール・ド・フランス。南フランス産のスパークリングです」


紗江は一口飲む。


フルーティーな香りと爽やかな甘みが、口の中に広がった。


続いて料理が運ばれてくる。


燻製風味のポークリエット。

自家製スモークサーモン。

シャルキュトリーの盛り合わせ。

アンディーブとりんごのサラダ、ロックフォールソース。


そして——


牛ハラミのステーキ、赤ワインソースとわさびのアクセント。


紗江は料理を味わいながら、心の中で確信していた。


——これは、ミシュランに値する。


やがてデザートの時間になる。


厨房の扉が開き、三上が皿を手に現れた。


「デザートの盛り合わせです」


創作的なスイーツが、美しく並んでいる。


紗江は目を細めた。


「今回はミシュラン用にディナーコースを全て改善しました。いかがでしたか?」


「どれもレベルが高くて驚きました」


三上は静かに微笑む。


「そう言って頂けると思いました」


紗江はふっと笑った。


「仙台にも、こんな素敵なお店を開拓したいな」


「……仙台?」


三上の表情が変わる。


「私、転勤するんです。仙台に」


三上は目を丸くした。


「三年くらいの予定で……」


「そ、そうなんですか……突然で驚きました」


紗江は穏やかに言う。


「だからね……三上さんとのデートは、田島のライブで一旦終了になります」


——沈黙。


やがて三上が静かに言った。


「仙台は東京から近いです。遊びに行きますよ」


紗江は微笑んだ。


「分かりました」


その時、コーヒーを持った海が近づいてきた。


三上は厨房へ戻る。


すれ違いざま、海が小声で聞いた。


「何か……大事なお話しでした?」


紗江は少しだけ考え、そして答えた。


「……大丈夫よ。アメリケーヌソースの話だから」


カウンター席から窓の外を見る。


夜空には、満月が静かに輝いていた。


⸻

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