第40章 グラスの夜景
季節は静かに移ろい、街には秋の気配が滲み始めていた。
夕方の自室は、昼間の喧騒が嘘のように落ち着いている。
田島は、数週間前から返事を保留にしていた三月開始のライブツアーの資料を、テーブルの上で指先に挟んでいた。
そこへ、マネージャーから電話が入る。
「……田島さん、事務所が返事を急いでまして」
短い沈黙のあと、田島は小さく息を吐いた。
「――受ける。三月からのツアー、お願いしますって伝えて」
「分かりました。すぐ報告します」
通話が切れる。
田島はソファーにもたれ、天井を見上げた。
このツアーには、紗江を招待する。
そして――終演後、プロポーズする。
まだ誰にも話していない、胸の奥にしまった決断だった。
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一方その頃、紗江は会議室に呼び出されていた。
ガラス張りの部屋に差し込む夕日が、机の上の資料を橙色に染めている。
「朝比奈くん……実はね」
上司は少し言いづらそうに前置きをした。
「仙台支社から、本社へ、一名応援を出してほしいという要請が来ている。そこで――君を抜擢したい」
「……転勤、ですか?」
紗江の声は、思ったよりも静かだった。
「三年程度だ。戻ってきたら昇格は保証する。頼む」
突然の話に、言葉が出てこない。
「……少し、考える時間をください」
「分かった。検討してくれ」
会議室を出た瞬間、紗江の頭は真っ白になった。
——ここに来て、転勤。
想定外すぎる。
就業時間は過ぎていたが、仕事を持ち帰ることにしてバスに乗る。
窓の外では、街の景色がゆっくりと流れていた。
自室に戻ると、以前利用したUberでタンミョンとマンゴーティーを注文する。
シャワーを浴び、スウェットに着替えた頃、インターホンが鳴った。
箸を手に取り、タンミョンを口に運ぼうとした瞬間、携帯が震える。
画面には、田島の名前。
「もしもし……俺」
「うん、何?」
「三月から始まるライブツアーに……君を誘いたいんだ」
「……えっ?」
一拍、間が空く。
「東京公演、来てほしい」
「……身体は、大丈夫なの?」
「リハビリしながら、医者とも相談して進める」
「……分かった」
「ありがとう。近いうち、飯でも行こう」
「うん……分かった」
通話が切れる。
紗江は小さくため息をつき、冷めかけたタンミョンを口に運んだ。
田島の身体が気になる。
けれど今は、自分の転勤の話で頭がいっぱいだった。
仕事を再開し、気づけば時刻は二十三時を過ぎている。
「……残業手当、つかないわね」
そう呟き、ワイングラスを手にベランダへ出た。
夜の街は、ところどころに灯りが浮かぶだけで、静まり返っている。
グラスに映る夜景が、微かに揺れた。
胸の奥が、ざわつく。
まるで、自分の未来が音を立てて動き出しているのを感じるように。
紗江は、その夜景を映したまま、ワインを飲み干した。




