第37章 波乱の夜
三人はDolce Mareの前に立ち、重厚感のある扉を押し開けた。
低く落ち着いた照明と、潮の香りを含んだ空気がゆっくりと身体を包む。
「いらっしゃいませ……」
ホール担当の海はそう言いかけて、言葉を詰まらせた。
視線の先に並ぶ顔ぶれ――紗江、田島、澤口。
一瞬の戸惑いを、長年の接客で身につけた微笑みで押し込める。
「……三名様でよろしいですか? こちらのお席へどうぞ」
窓際のテーブル席へと案内される途中、海は何度か紗江の様子を伺った。
紗江は終始、俯いたまま。足取りもどこか硬い。
「ディナー、三名分でお願いします」
澤口が、少し浮ついた声で告げる。
海は頷き、メニューを置いた。
「お飲み物はいかがなさいますか?」
「カルバドス、ブラー・グランソラージュを」 澤口
「私も同じで」 紗江
「……ザクロジュースで」 田島
三人の注文を復唱しながら、海は最後に紗江へ目を向けた。
「紗江さん……お元気そうで、良かった」 海
その一言に、紗江はゆっくりと顔を上げる。
一瞬だけ視線が合い、微笑みが交わされた。
けれど、その笑みはどこか脆く、すぐに伏せられた。
ドリンクが運ばれ、三人は、ぎこちなくグラスを合わせる。
「最近……ご無沙汰だったので、楽しみなんですよ」 澤口
「結構、来られるんですか?」 田島
「ランチで時々……課長にご馳走してもらってます。ねぇ、課長〜」 澤口
「えっ? あ、ええ……」 紗江
澤口の軽口に、田島は曖昧に笑った。
紗江は会話に加わらず、ただグラスの縁を指でなぞっている。
前菜が運ばれても、味はほとんど分からなかった。
胸の奥で心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなる。
料理を楽しむ余裕など、最初からなかった。
「あ〜……美味しかった」
澤口の満足げな声と同時に、最後の竹炭焙煎コーヒーが運ばれてくる。
そのとき、田島が紗江を見つめた。
「……紗江。ちょっと、いいか」
彼はカウンター席を指差した。
紗江は何も言わず、コーヒーカップを手に立ち上がる。
二人が並んで腰を下ろすと、店内のざわめきが遠のいたように感じられた。
田島は一口コーヒーを飲み、深く息を吐く。
「……まずは、ごめん」
そう言って、頭を下げた。
「許してくれないのは分かってる。でも……俺は、紗江がいないとダメなんだ。
責めていい。償わせてくれ……」
「……あっ……」
紗江が言葉を探した、その瞬間だった。
厨房の扉が静かに開く。
三上が姿を現し、まっすぐ紗江に近づいて来た。
「紗江さん……先日はありがとうございました。あれからずっと考えていました。ずっと僕の側にいて欲しい。
結婚を前提に、お付き合いしてください」
差し出された手。
時間が止まったように、店内が静まり返る。
「えっ?」
「……えっ?」
紗江と田島の声が、重なった。
澤口も海も、一斉にこちらを見る。
「……えっと……保留で、お願いします」 紗江
絞り出すような声だった。
「……マジか……」 田島
田島は顔を手で覆った。
「……分かりました」 三上
三上はそれだけ言うと、静かに厨房へ戻っていった。
ホールの海も、澤口も、言葉を失っている。
周囲の客たちの視線が集まり、店内は一瞬、騒然とした。
紗江は隣の田島を見る。
彼はまだ顔を覆ったままだ。
紗江は、客席から向けられる視線の重さに耐えきれず、ただ俯くしかなかった。
閉店間際の店内に、オレンジ色の灯りだけが、静かに残っていた。




