第36章 波乱の夜の前触れ
3日間の休養を得て、紗江は久しぶりに会社へと足を運んだ。オフィスに足を踏み入れると、相変わらずPCの打鍵音と社員たちの会話が低く響いていた。コーヒーの香りがほんのり漂う中、紗江は自分のデスクに腰を下ろし、テイクアウトしたカフェラテの蓋を外した。口に含むと、ほんの少し安堵の息が漏れる。
その時、部下の澤口が軽やかな足音を立てて近づいてきた。「課長〜、大丈夫ですか?」と、少し小さな声で訊ねる。紗江は微笑みながら答えた。「心配かけてごめんね……もう大丈夫。不死身の女、復活したから」
澤口は紗江の顔にぐっと顔を近づけ、小声で囁く。「彼氏さんと……何かありましたか?」
紗江は慌てて体を引き、資料を手渡しながら切り返した。「な…何もないわよ、澤口。この資料の整理をお願い」
澤口は受け取った資料を抱え、ぶつぶつと文句を呟きながらデスクに戻っていく。紗江は心の中で小さく呟いた——澤口〜、やばっ。
そんな日常の業務を終え、帰り支度をしていると、澤口が再び近づいてきた。「課長〜、一緒に帰っても良いですか?」
紗江は驚きの表情を浮かべる。「え?どうして?」
「お話ししたいことがたくさんあるので」
紗江は肩をすくめ、少し微笑む。「仕方ないわね〜。じゃあディナー、一緒にする?」
「え?良いんですか?課長のおごりで?」
紗江は軽くため息をつきながら、笑った。
「澤口〜っ」
会社のエントランスを出ると、そこに一台のタクシーがスーッと止まった。ドアが静かに開き、低く響く声が紗江を呼び止める。
「紗江っ!」
思わず振り返ると、そこには田島が立っていた。ギブスで片足を固定した姿でも、低く掠れた声は強く心に届く。
隣にいた澤口が目を丸くし、声を潜めて呟いた。
「あれ?original・loveの田島さん?」
紗江は焦り、腕を掴んで澤口を引こうとした。「行くわよっ!」
しかし澤口は動かない。
「課長〜、一緒に写真撮って貰って良いですか?」
紗江は思わず「澤口っ!」と小さく叫ぶ。
田島は紗江に近づき、頭を下げて言った。
「今回の事はすまない。話がしたい。頼む……」
状況を理解できない澤口は、無邪気に提案する。
「田島さん……これから課長とディナーに行くんですけど、良かったらご一緒しませんか?」
紗江はトーンを落として、耳元で囁く。「澤口…黙って!」
田島はギブス姿の足を軽く触りながら、柔らかく微笑む。
「ディナー、良いですね。こんな足ですが、ご一緒させてください」
紗江は頭を抱え、視線を斜め上に向ける。窓に映った揺れる街灯の光が、心臓の高鳴りと重なる。
澤口は浮かれた顔で田島の方を見つめながら、「田島さんとディナーなんてうれしい〜」と小さく呟く。
結局、3人はタクシーに乗り込み、澤口が運転手に「Dolce Mareまで」と告げた。紗江は低く、「澤口〜っ!」と呟きながら、心臓が飛び出しそうな胸の高鳴りを抑えた。
夜の街を抜け、Dolce Mareへ向かう車内。静かに流れる音楽と街灯の光が、これから始まる夜の波乱を予感させていた。




