第34章 ジビエな時間
夏の陽射しがまだ柔らかく、涼やかな水曜日の朝。紗江は思った以上にそわそわしながら、クローゼットの前で身支度を整えていた。今日はBBQ。ーこの洋服で大丈夫かな?ーと、カジュアルなトップスにデニムを合わせ、つば広の帽子を深めにかぶる。鏡越しに自分の姿を確認し、少しだけ笑みがこぼれた。
家を出てバス停に向かうと、程なくして三上が車で現れた。いつも通りの優しい笑みを浮かべ、紗江の姿を見つけると軽く会釈する。
「おはようございます、紗江さん。待ちましたか?」
「私も今来たところです」
と笑顔で答え、助手席に乗り込む。車内はエアコンが効いていてさわやかな風が髪をかすかに揺らした。
三上は「甲府盆地と富士山が見渡せる絶景のカフェなんですょ」と言いながら、袋から飲み物を差し出す。紗江は千葉での思い出と重ねて微笑む。ーでも、山梨は田島との思い出がある場所なので心から笑えない自分がいたー。
ラジオから流れてきたのは「original・love」の曲。ふと胸に残る余韻を感じた紗江は、そっとラジオを消す。
「どうしました?」
「今は、無音がいいかな……」
「……?」
「わ、私、歌ってもいいですか?」
三上は小さく笑いながらも、優しく頷いた。二人の間には沈黙の柔らかい時間が流れ、紗江の胸にゆっくりと染みていく。
窓の外には真夏の光が降り注ぎ、山道を登る途中、ふと紗江が小声で叫ぶ。
「リスっ!リスがいる!」
三上は必死に目をこらすが、「もう見えませんね、残念」と言った。紗江が肩をすくめると、二人は思わず笑い合った。お互いの笑い声が緊張していた心をほどけていった。
やがて到着したBBQ CAFE SOLA。テラス席に通され、目の前に広がるのは甲府盆地と遠くの富士山。紗江は息を飲む。
「凄い……」
景観の美しさに、思わず声が漏れた。二人は6人掛けのテーブルに腰を下ろす。風が軽く吹き抜け、テーブル上のナプキンが揺れた。
「いよいよですね」
「私、お腹が空きすぎて……」
「じゃあ、まず飲み物から頼みますか。紗江さんはお酒大丈夫ですょ。」
「えっ?ありがとう、お願いします!」
そして山梨産の白ワインとクラフトコーラが運ばれてくると、二人は軽く乾杯した。グラスが触れ合う音が柔らかく響く。
「お昼から飲むお酒は最高ですね」
「その顔が見たかったんです」
熱々の鉄板に鹿肉が並ぶ。三上は手際よく、焼き加減を調整しながら、炭火ジビエのコツをささやく。
「焼きすぎると固くなるので、短時間勝負か弱火で長時間がポイントです」
「さすが、シェフですね」
「炭火ですから、僕に任せて下さい」
焼き上がったジビエを口に運ぶと、紗江はワインを傾けながら満面の笑みを浮かべた。口の中で香ばしい肉の味とワインの酸味が絡み合い、幸せが胸に広がる。
「美味しい物を食べてる時が、一番幸せ」
「……それ、何回目ですか?」
二人の会話すらも、紗江の心を静かに癒していく。
おかわりのワインを頼んだ頃には、かなりの量を食べていたことに気づく。景観の良いテラス席でBBQを楽しむ時間は、紗江にとって小さな夢が叶った瞬間でもあった。
「デザートにアイスクリームたべませんか?」
「お願いします!」
甘く冷たい時間が二人を包み込み、午後の光がゆっくりと傾いていく。
山と空の色が混ざるテラスで、紗江は心の中で深く充実感を噛み締めた。小さな冒険、初めてのジビエ、そして誰かと分かち合うひととき――すべてが、傷ついた心をそっと癒してくれていた。
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