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第33章 傷ついた心


 自宅に戻った紗江は、バッグを置くなり会社へ電話をかけた。

 体調が優れないため、三日ほど休みたい――そう伝えると、受話口の向こうの上司は歯切れの悪い返事を返してきた。


「……忙しい時期なのは、分かってるよね?」


 一瞬、胸の奥がきしむ。

 だが紗江は、ゆっくりと息を吸い、はっきりと言った。


「私が倒れたら、会社は責任を取ってくれるんですか?」


 沈黙。

 数秒後、観念したような声が返ってくる。


「……分かった。経過は、ちゃんと報告するように」


 通話を終えた瞬間、全身から力が抜けた。


 シャワーを浴び、熱いお湯に身を委ねる。

 髪にはお気に入りのオイルを惜しみなく含ませ、丁寧に整える。

 フェイスパックを顔に乗せたとき、ふと思った。


 ――これは、田島から離れるための儀式。


 スキンケアを終える頃には、心に少しずつ栄養が行き渡り、以前の自分が戻ってきているのを感じた。


 自家製のジンジャーエールを作り、ソファーに腰を下ろす。

 サブスクでテレビを眺めていると、朝から何も口にしていないことに気づいた。


「……そうだ、Uber……」


 初めての注文。

 ガパオライスとサラダは思ったより早く届いた。


「便利だけど……コスパ高いわね」


 苦笑しながらも、空腹を満たす。

 食事が胃に落ちた頃、田島への怒りは不思議と静まっていった。

 同時に、彼のその後を案じる気持ちが顔を出す。


 ――これで良かったの?

 そう問いかける自分と、もう戻れないと知っている自分。


 食後、三上から電話が入った。


「もしもし、紗江さん。明後日の行き先なんですが……山梨にBBQ CAFE SOLAという所がありまして。ジビエ料理もあるみたいなんです。」


「ジビエ……?珍しいですね」


「そこにしようかと思うんですが」

「大丈夫です、お任せします。」


「では、九時から十時頃に、バス停前まで車で迎えに行きますね」


「了解しました。楽しみにしています」


 電話を切ると、ふうっと体の奥から緊張が抜けた。


 洗濯機を回していると、再びスマートフォンが鳴る。

 画面に表示された名前を見た瞬間、指が止まる。


 ――田島。


 迷いなく留守電に切り替えた。

 流れてきたのは、謝罪の言葉ばかりだった。

 相手の女性と縁を切った事、家事代行を頼んだ事、償いたいという言葉。


 ……何も、心には響かない。


 ただ「家事代行を使った」という一言だけが、わずかな救いに思えた。


 乾燥機の音を聞きながら、紗江は思う。

 自分は今、確かに浄化されている。


 気づけばソファーでうたた寝し、外は夕方の色に変わっていた。


 買い出しのため外へ出る途中、小さな神社が目に留まる。

 普段なら通り過ぎる場所。

 だが、今日は足が向いた。


 境内にはキャンドルが灯され、拝殿は柔らかくライトアップされている。

 異次元に迷い込んだような、幻想的な空気。


 賽銭を投げ、手を叩く。

 その瞬間、不思議と心が正される感覚に包まれた。


「……ご利益、ご利益……」


 小さく呟きながら境内を歩き、手水舎で手を洗う。

 ふと、自分の行動がおかしくて吹き出した。


「私、何やってるんだろ……順番、逆じゃない?」


 笑いながら神社を出る頃には、心はすっかり軽くなっていた。


「……神様の力って、偉大だわ」


 そう呟き、スーパーの自動ドアをくぐる。


 いつもと違う行動、余裕のある時間。

 それらすべてが、傷ついた紗江の心を、静かに癒していた。

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