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第32章 紗江の決断


 田島の部屋を飛び出し、Dolce Mareに辿り着いた夜の記憶は、ところどころ曖昧だった。

 気がつけば紗江は、三上の腕の中で静かに眠っていた。


 薄く差し込む朝の光に、ゆっくりと意識が浮上する。

 目を開けた瞬間、頬に冷たい感触があった。

 ――涙。


 眠っている間も、心は休めていなかったのだと知る。


 しばらくして、隣で微かな動きがした。


「……おはようございます、紗江さん」


 三上の穏やかな声。

 紗江は身を起こし、小さく頭を下げた。


「おはようございます……。ご迷惑をおかけして、すみませんでした」

「大丈夫ですよ。ご気分はいかがですか?」


「……もう、大丈夫です」


 三上はそれ以上踏み込まず、ふっと微笑む。


「コーヒー、飲みませんか?」

「ありがとうございます。じゃあ……いただきます」


 三上は静かに立ち上がり、厨房へ向かった。


 その間に紗江はバッグからコンパクトミラーを取り出す。

 映った自分の顔に、思わず息を呑んだ。

 目の下には薄く影が落ち、髪は乾いて広がっている。


 ――ひどい顔。


 コームで髪を整え、メイクシートで目元を拭う。

 少しだけ、人としての輪郭を取り戻す。


 タイミングよく、三上がエスプレッソを運んでくる。


「朝はエスプレッソを飲むと、頭が冴えますよ」

「ありがとうございます」


 店内には、朝の柔らかな光が降り注いでいた。

 二人は昨夜と同じソファーに並び、無言でエスプレッソを口にする。


 しばらくして、三上がぽつりと言った。


「今週の水曜日、店が定休日なんですが……紗江さん、お休み取れませんか?」


「え……水曜日ですか?」


「もしよろしければ、気分転換にドライブでもと思いまして」


 紗江は、その言葉に込められた配慮をすぐに察した。


「有給があるので、数日休もうと思っていました。大丈夫です」

「じゃあ決まりですね。どこか行きたい所、ありますか?」


 一瞬の沈黙。


「……私、BBQしてみたいです。きれいな景色を見ながら」


 三上は少し驚いた顔をしてから、優しく笑った。


「わかりました。調べておきますね」


 その瞬間、紗江の胸に安堵が落ちる。


 残ったエスプレッソを飲み干し、テーブルにドリンク代をそっと置いた。


「本当に……三上さんには助けて貰ってばかりで。これからは、心配をかけないように生きていきます」


 三上は少し頬を赤らめ、視線を逸らす。


「……僕は、紗江さんに甘えてもらえると嬉しいんですよ」

「……三上さん」

「いつでも、頼ってください」


「とりあえず水曜日に……明日、連絡します」

「わかりました」


 店を出ると、夏の朝の風が頬を撫でた。

 想像以上に心地よく、昨夜までの重たい感情を、Dolce Mareに置いてきた様に感じられる。


 歩きながら、紗江は静かに思う。


 ――田島の元へは、もう戻らない。


 それは衝動ではなく、確かな決断だった。





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