第31章 紗江の逃げ道
二股の女が帰宅してからというもの、田島と紗江の間に流れる空気は、本当に冷え切ってしまっていた。
謝罪も説明も、どれもが表面をなぞるだけで、心には響かない。
紗江はいつしか、田島の身の回りの世話を“恋人として”ではなく、“業務”のように感じるようになっていた。
――もう、無理だ。
その思いが胸に溢れた瞬間、紗江は静かに荷物を掴み、玄関へ向かう。
「待ってくれ、紗江……すまない、本当に……」
背後から田島が腕を掴む。必死な力だった。
けれどその温もりは、もう紗江を引き留める理由にはならなかった。
「……離して。」
短く告げ、腕を振り払う。
紗江は振り返らず、マンションを飛び出した。
夜の風が頬を打つ。
電車を乗り継ぎ、無意識のまま辿り着いた先は――Dolce Mare。
重厚感のある扉を押し開けると、店内に広がる柔らかな灯りと、潮のように落ち着いた空気が迎え入れる。
ホールに立つ海が、いつものように微笑みながら近づいてきた。
「いらっしゃいま……せ。」
けれど紗江は俯いたまま、顔を上げられなかった。
その異変を察した海は、一瞬視線を走らせると、何も言わずに厨房へ入る。
ほどなくして、三上が厨房から姿を現した。
「……どうしましたか?」
低く、穏やかな声。
紗江は言葉を探すように唇を動かすが、声にならない。
「――えっと……」
三上はそれ以上追及せず、海に目配せする。
「ソファー席へご案内して」
通されたのは、いつも三上とお酒を飲んでいた、あのソファー席だった。
「お飲み物、いかがなさいますか?」
「……レモンとジンジャーのサワーをお願いします」
「かしこまりました」
海が厨房に消え、ほどなくしてグラスがテーブルに置かれる。
一口含んだ瞬間、レモンの酸味とジンジャーの刺激が喉を通り、紗江の胸に溜まっていた緊張が、少しだけほどけた。
――この味だ。
最後の客が会計を終え、店内が静まり返った頃、三上が厨房から出てきて、紗江の隣に腰を下ろす。
「……顔色、良くないですね。大丈夫ですか?」
その一言で、堪えていたものが崩壊した。
紗江の目から、ぽろりと涙が零れ落ちる。
「……っ……」
三上は何も言わず、そっと紗江を抱きしめた。
頭を撫でながら、唇を噛みしめる。
「……やっぱり……あいつには、任せられない」
紗江の携帯が震える。
画面には、田島からの着信が何件も並んでいた。
ホールにいた海は、その様子を見て何も言わず厨房へ戻る。
「ごめんなさい……私……頑張ったんです。でも……背負いきれなくて……。」
嗚咽混じりの声。
三上は抱きしめていた腕をそっと離し、ポケットからハンカチを取り出して紗江に差し出す。そして、静かに手を握った。
「……逃げたかったら、逃げればいい。それは罪じゃない」
紗江は顔を上げる。
「私は、ずっと紗江さんの味方ですから」
その言葉に、張り詰めていた心が音を立てて緩んだ。
紗江はサワーを飲み干し、小さく笑う。
「……ごめんなさい。やっぱり私……三上さんがいないとダメですね。あなたと話すと……落ち着きを取り戻せます」
三上は再び紗江を抱きしめ、髪を撫でる。
「……帰りたくなったら、帰っておいで。」
店の外では、ライトアップされた緑が風に揺れ、瑞々しく光っていた。
まるで、迷子になった心を、静かに見守るように――。




