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第30章 新しい試練


田島は一ヶ月の入院を経て、ようやく自宅療養に入った。

季節は知らぬ間に夏へと移り変わり、窓から差し込む光は日に日に強さを増していた。


その頃から紗江は、田島の身の回りの世話をするため、半同棲のような生活を始めていた。

着替えの手伝い、入浴の介助、掃除や洗濯、食事の支度。生活のすべてが彼女の手に委ねられていた。

時折マネージャーが顔を出すことはあったが、役割は買い物係に回る程度で、実際の介助は最小限だった。


仕事と介護の両立。

その重さに、紗江は言葉にできない憤りを抱えながら日々を過ごしていた。


「すまない……俺のことで迷惑をかけて」


ソファに座る田島が、申し訳なさそうに視線を落とす。

紗江はドリップしたばかりのコーヒーを差し出しながら、淡々と答えた。


「私、不死身の女だけど。できることはなるべく自分でするようにしてね。私に甘えすぎないこと」


冗談めかした口調とは裏腹に、その声には境界線を引く強さがあった。


「ありがとう。……こっちに座って」


田島はソファの隣を指さす。

一瞬の迷いのあと、紗江は「?」と思いながら腰を下ろした。


その瞬間だった。

田島はそっと彼女の髪をかき上げ、静かに唇を重ねてきた。


熱く、長いキス。

拒む理由はなかったはずなのに、その温度が、なぜか少しだけ重く感じられた。


ふっと唇が離れ、田島は紗江の目を真っ直ぐに見つめ、真剣な表情で言った。


「君にはたくさん迷惑をかけたし、支えにもなってもらった。これからも……ずっと俺のそばにいてほしい」


その言葉が部屋に落ちた瞬間――

ピンポーンッ、とインターホンが鳴り響いた。


紗江は立ち上がり、モニター越しに応答する。


「はい、どちら様ですか?」


返ってきたのは、刺のある女性の声だった。


「……あなた、誰?」


背後で田島の空気が変わるのを、紗江は感じた。


「今、出るから。待っていて」


田島は焦った様子でそう告げ、松葉杖をつきながら玄関へ向かう。

その背中を見つめながら、紗江は呆然と立ち尽くすしかなかった。


玄関先から、抑えた声の言い争いが聞こえてくる。

耐えきれず、紗江も玄関へ出た。


「朝比奈と申します。どちら様ですか?」


女性は紗江を値踏みするように見つめ、吐き捨てるように言った。


「あなたね……。この人は、私の男なの。出て行って」


紗江は田島の方を見た。

田島は何か言おうとして、言葉を失ったまま立ち尽くしている。混乱が、その表情に滲んでいた。


「田島は今、このような状況です。介助も必要です」


紗江は静かに、しかしはっきりと続けた。


「あなたが、そのすべてを担えますか?」


女性は言葉を失い、黙り込んだ。


「落ち着いたら、三人で話しましょう。今日はお引き取りください」


そう言って、紗江は扉を閉めた。


玄関に残された静寂。

田島は肩を落とし、かすれた声で呟いた。


「……すまない。」


その一言の重さが、二人の間に沈殿する。

夏の光は変わらず差し込んでいるのに、部屋の空気だけが、ひどく冷たく感じられた。


それが、紗江に訪れた新しい試練の始まりだった。

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