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第25章 それぞれの幸せ


 初夏の気配が色濃くなり始めた土曜日。

 会社が休みの紗江は、ベランダに出てコーヒーを口にしながら外を眺めていた。風に揺れる木々は青々とし、下の公園からは子どもたちのはしゃぐ声が聞こえる。その無邪気な声に、胸の奥が一瞬だけ緩んだ。


 その時、リビングのテーブルの上でスマートフォンが鳴った。

 画面に表示された名前を見て、紗江は思わず息を止める。


「……もしもし」

「紗江さん。今日はお休みですか?」


 三上の落ち着いた声だった。


「……はい」

「急で申し訳ないのですが、今日これから車を手配して千葉まで食材を見に行くことになりまして。もしご迷惑でなければ、同行していただけないかと思いまして」


 一瞬、言葉に詰まる。


「……私が、ですか?」

「ええ。紗江さんは繊細な舌をお持ちの“フーディー”ですから。ぜひ一緒に見ていただけたらと」


 ——間が空く。


「……予定、空いてますので。喜んで」


 電話口の向こうで、三上がほっと息を吐いた気配がした。


「ありがとうございます。では、車で迎えに行きます。また連絡します」


「……了解しました」


 ——山梨の次は千葉か。


 小さく呟きながら、紗江はソファに腰を下ろし、化粧道具を広げた。カジュアルな服に着替え、帽子を手に取る。しばらくして再び電話が鳴り、最寄りのバス停で待ち合わせることになった。


 五分後、三上の車が到着する。


「急なお願いを聞いていただいて、本当に助かりました」


「……私、フーディーなんですね」


「私には、そう見えましたよ」


「初めて言われました」


 そんなやり取りに、紗江は不思議な安心感を覚える。

 三上は袋から飲み物を取り出し、何気なく紗江に差し出した。その自然な仕草が、いかにも三上らしくて、思わず微笑んでしまう。


「勝浦に契約農家がありまして。新しい野菜の下見です。ついでにワイナリーにも寄ろうかと」


「ワイナリー!」


 思わず身を乗り出すと、三上が笑った。


「……そういうの、お好きでしょう?」


 車で二時間。到着した農家で、三上は先に降り、手土産のスイーツボックスを農家の人に手渡した。その後、紗江も呼ばれ、軽く頭を下げる。


「奥さんかい?」


 冗談交じりの声に、三上は即座に首を振る。


「違います。彼女は、僕が信頼するパートナーです」


 胸の奥が、ぎゅっと鳴った。


 ガレージに用意された簡素なテーブルには、茹でたとうもろこし、じゃがバター、大根、ほうれん草、にんじんが並んでいる。


「宝の山だな」 三上


 とうもろこしは驚くほど甘く、瑞々しかった。


「……こんなに美味しいとうもろこし、初めてです」 紗江


「そうでしょう」 農家の人


 三上は迷いなく追加注文を決める。その背中を見ながら、紗江は考えていた。

 一皿の向こう側に、これだけの時間と手間があるのだと。


 次に向かった船橋のワイナリーでは、オレンジワインとスチューベン・ロゼを試飲した。果実味あふれる新酒に、紗江は目を細める。三上はそれを一本ずつ、そして今年のクラフトワインも注文した。


 気づけば空腹だった二人は、にんにく料理と牛タンの店に入る。

 コンクリート壁と間接照明のカウンター席。ワインカクテル・オペレーターと自家製ジンジャーエールで乾杯し、料理を分け合う。


「新しい発見ですね」 三上


「……本当に、全部完璧です」


「美味しい物を食べている時が、一番幸せ」


 そう言った紗江を見て、三上が静かに微笑む。


「……その顔が、見たかったんです」


 帰りの車内ではFMラジオが流れ、気づけば二人の手は、自然に重なっていた。


 二人を乗せた車が、どこへ向かっているのか。

 紗江には、まだ想像もつかなかった。



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