18章 春の雨の霧雨
季節は移ろい、街には春の湿った空気が漂い始めていた。田島のツアーも終盤に差し掛かり、終わりが近づいている。休日になると、紗江と田島は変わらずオンラインで長電話をしていた。時には3時間近くも続くこともあった。しかし、どれだけ話しても、紗江の心の隙間は埋まらず、田島に用意したプレゼントを渡す機会も持てずにいた。唯一の心の楽しみは、Dolce Mareでの試飲の時間だけだった。
ある日の夕方、会社を出た紗江は雨粒に気づき、慌ててカバンから傘を取り出した。「こんな日のために持ち歩いていて良かった」と小さく呟く。紗江はいつものバス停の方向に歩き出す。傘を傾ける手に、雨の冷たさがほのかに伝わる。
遠くの交差点で、見慣れた姿が目に入った。傘を差し、タクシーを止める田島の姿だ。紗江は足を止め、遠目からその光景を静かに見つめた。胸が小さくざわつく。そして駆け寄ろうとした瞬間、建物から一人の女性が現れた。女性は傘を差し、田島の停めたタクシーに乗り込む。すると、その女性は田島の肩に手を置き、短くも鮮烈なキスをした。
その瞬間、紗江の頭に衝撃が走った。まるで後ろから殴られたような感覚。女性はキスの後すぐにタクシーに乗り込み、田島の元を去る。そして田島はそのまま建物の中に入っていった。
傘を握りしめながら、その建物に近づき立ち尽くす。煌びやかなエントランスの受付係の視線が自分に向くのを感じる。ここは田島が暮らすマンション前――頭の中で、タクシーとキスの光景がぐるぐるとリピートされる。「私…何を見たのだろう?」何度も問いかけ、胸が締めつけられる。
気づくと、紗江は無意識のうちにDolce Mareの前に立っていた。雨のせいで店の灯りが濡れた街を柔らかく照らしている。中から海が出てきて、視線は自然に紗江へ向く。傘をさしているにも関わらず、髪も肩も少し濡れていた。「朝比奈さん…?大丈夫ですか?」
紗江は声にならない声で「ーー。」と答える。こぼれ落ちる涙を押さえられず、海はそっと手を添え、「落ち着いて。店の中に入りましょう」と促す。店内は雨のためか静まり返り、ほのかなランプの光だけが暖かく揺れていた。海は厨房からタオルを持ってきて、紗江に差し出し、ソファー席へ案内する。「ちょっと待っていて下さい」と厨房へ戻った。
しばらくすると、三上が温かな香りを漂わせて、ホットワインを手に現れた。「朝比奈さん…どうされました?」
紗江は震える声で答える。「わ…私、見てはいけないものを見てしまいました…」
三上は優しくホットワインを差し出す。「これを飲んで、少し落ち着いてください」
口に含むと、温かく甘いワインが胸の奥まで染み渡る。冷たくなった心が、まるで抱きしめられたかのように和らぐ。
「お腹は空いていませんか?好きなものを作ります。少しでも口にした方が良いですよ」
紗江は小さく頷き、「三上さんにお任せします」と言い、借りたタオルで涙と濡れた髪をそっと拭った。三上は厨房へ戻り、海が優しくおかわりのホットワインを持ってきてくれる。
やがて、三上はビーフシチューを運んできた。クリームの白が映え、横には飾りのクレソンが添えられている。赤くほんのり甘いホットワインとともに口に運ぶたび、紗江は少しずつ自分を取り戻していった。
「何かあったんですか?私で良ければ話を聞きますよ」と三上が声をかける。
紗江は大きな窓の雨を見やり、静かに言った。「私は、夢を見ていたのかもしれません。今日、現実を見せられ、感情の整理ができずに雨の中歩いていたら、この店の前に立っていました」
その瞬間、田島からLINEが届く。三上は向かいに座り、そっと紗江の手を握り締める。「そんな恋は朝比奈さんには似合わない。あなたは美味しい物とお酒が分かる、感性のある方。いつも笑顔でいてほしい」
一瞬手を強く握り締め、三上は厨房に戻る。その後、海が白湯を持ってきて、そっと肩に手を置く。紗江は心の中で決める。「この店の人たちに、全てを預けて行こう」
そっと海の手を握り、「ありがとう…ごめんなさいね」と呟くと、海は微笑み返す。「いつでも僕たちは、朝比奈さんが来るのを待っていますよ」
紗江は一礼してDolce Mareを出る。外の春の雨は、冷たくもあり、温かくもある――紗江にとって、この雨は悲しみを洗い流す優しい雨だった。




