第17章 ワインの香りに包まれて
数日後の夕暮れ、紗江はいつものように仕事を終え、帰り支度をしていた。カバンに荷物を詰める手を止めると、携帯の画面にピコッとLINEの通知音が光る。画面を覗き込むと、三上からだった。
――ご都合良ければ、これからお店に来ませんか――
紗江は自然と頬が緩む。手早く指先で返信する。
――了解しました、これから伺います――
――では、お待ちしています――
――はい、後程――
短いやり取りだったのに、心の奥がちょっとだけ弾む。紗江はコートを羽織り、自然と足早に駅へ向かった。冬の夕風がほのかに頬を撫で、吐く息が白く立ち上る。心の奥で、小さな期待が膨らんでいるのを感じながら、紗江はDolce Mareの扉を押した。
店内に一歩足を踏み入れると、いつものシーフードの香りと落ち着いた灯りが迎えてくれる。「朝比奈さん、今日も素敵ですね、ご来店ありがとうございます」と笑顔で迎えたのは海だった。
「シェフから申し伝えがありまして……カウンター席に座ってお待ち下さい」
紗江は海に従い、ガラス越しに外の街灯の光が差し込むカウンター席に腰を下ろした。店内にはカップルやグループが静かにディナーを楽しむ声が響き、木の温もりある家具が柔らかく空間を包む。
程なくして海が白ワインを運んで来た。グラスを差し出しながら、彼は微笑む。「今日のワインはおたる ナイヤガラ・スパークリングです。すっきりした甘さが特徴です。お楽しみ下さい」
紗江は驚いた。「え? 何で国産なんだろ……」小さく呟きながらグラスに口をつける。ナイヤガラ特有の芳醇な香りがふんわり鼻腔をくすぐり、口に含むと果実の甘さと微かな酸味が絶妙に溶け合った。
続いて運ばれてきたのは、チーズを焦げ目にしたクリームシチュー。ナイヤガラ・スパークリングとの相性が想像以上に良く、紗江は思わず笑みを零す。口に運ぶたびにワインの甘さが舌の上で溶け、クリームシチューの濃厚さと溶け合う。
その時、厨房の奥から三上が顔を出す。紗江の視線が自然と彼に向かう。「三上さん…これ?」と訊ねかけた瞬間、三上は少し照れた様子で答えた。
「北海道に知り合いがいましてね……ワインの話になり、薦められた物を取り寄せたんです。最初はヨーロッパのものにこだわっていたのですが、試してみたら考えが変わりました。国産ワインも面白いかも、と思って」
「そぅだったんですね。凄く美味しいですし、クリームシチューとの相性も抜群です」
「ナイヤガラ・スパークリングにはクリーム・チーズ系の料理がよく合うんですょ。だからクリームシチューにしました」
「三上さん、本当にセンスが良いですね……料理にもワインにもハマってしまいます」
紗江は思わず追加のオーダーを口にした。「追加で、いつものお願いします」
「かしこまりました」三上は少し恥ずかしそうに微笑み、再び厨房へと戻る。
紗江の隣で海はくすくすと笑いながら言った。「家のシェフのアピール、凄いでしょ?」
紗江は思わず顔を赤らめ、「試飲ですから」と慌てて答える。海は微笑んで厨房へ戻り、店内に穏やかな空気が流れる。
紗江は深く息をつき、気づくと三上の手掛ける料理とワインの世界に、すっかり心を委ねていた。口にするたびに広がる香りと味、そして少しだけ照れた三上の表情。ふと、胸がじんわりと高鳴るのを感じる。
ああ、私は今、間違いなくこの時間に浸かっている――紗江は静かに、けれど確かに自分の心が満たされていくのを感じていた。




