第19章 シードルの香る夜
雨は上がっていたが、紗江の心はまだ乾いていなかった。
それは、先日目の前で突きつけられた現実を見てしまった、その瞬間から何ひとつ変わっていない。
相変わらず、田島からのLINEや電話は途切れることなく続いていた。
通知が光るたび、胸の奥がざわつく。けれど、紗江は応じることができなかった。
デスクの上に積まれた書類を淡々と片付け、最後にノートPCをカバンに収める。
「……はぁ」
思わず漏れた溜息を、部下の澤口は見逃さなかった。
「課長っ!」
やけに元気な声に、紗江は肩を跳ねさせる。
「な……何⁉︎」
驚いた表情のまま振り返ると、澤口はにやりと笑い、少し身を乗り出した。
「これからディナーに連れて行ってくださいよ〜。課長の奢りで!」
甘えたような視線を向けられ、紗江は思わず吹き出す。
「……子供みたい。しょうもないな」
そう言いながらも、澤口の肩を軽く叩いた。
「仕方ない。付き合うか」
その瞬間だけ、紗江の胸に張りついていた重さが、わずかに緩んだ気がした。
――救われた、そんな感覚が一瞬よぎる。
二人は並んで出入口ゲートへ向かう。
「何食べます?」
「うーん……」
「Dolce Mareでいいじゃないですか〜」
その言葉に、紗江の足が一瞬止まる。
「え……あ、あそこは無理」
「えぇ〜っ、なんでですか?」
そんなやり取りをしながらゲートを出た、その時だった。
「紗江っ!」
呼び止める声に、思わず振り返る。
帽子とサングラスをかけた田島が、こちらに向かって歩いてきた。
紗江は一瞬で状況を理解し、澤口の腕を強く掴む。
「行くわよっ」
有無を言わせない声でそう告げ、前へ進む。
田島は並ぶように歩きながら、低い声で言った。
「話がしたいんだ。俺の話、聞いてくれ」
紗江は何も答えない。
ただ唇を閉ざしたまま、タクシーを探す視線を前に向ける。
「……え? あの、どちら様ですか?」
澤口が戸惑いながら尋ねると同時に、ちょうど一台のタクシーが停まった。
紗江は迷わずドアを開け、澤口を促す。
「乗って」
二人が乗り込むと、紗江は淡々と告げた。
「Dolce Mareまでお願いします」
車が走り出す。
バックミラー越しに、取り残された田島の姿が小さくなっていく。
それを、紗江はもう振り返らなかった。
――
Dolce Mareの扉を開けると、温かな空気が二人を包み込んだ。
柔らかな照明、静かな音楽、ほのかに漂う料理の香り。
「朝比奈さんっ!」
海が気づき、すぐに近づいてくる。
「今日は部下も一緒です」
「ディナーを食べに来ました〜」
澤口が軽い調子で言うと、海は微笑み、店内奥の大きな窓際へ案内した。
ライトアップされた緑の植物が、夜の景色に静かに映えている。
席に着き、紗江は軽く頭を下げた。
「先日は……お騒がせしてすみませんでした。今日は、ワビメシです」
「お元気そうで安心しました」
海はそう言って、さりげなく距離を保つ。
ディナーコースを二人分注文すると、海は厨房へ戻り、ほどなくしてグラスワインを運んできた。
「山形県朝日町のシードル・セックです。濃厚な香りと、酸味と甘みのバランスをお楽しみください」
グラスに注がれた淡い黄金色。
紗江はひと口含み、静かに目を伏せる。
上品な甘さと、瑞々しい酸味が舌に広がる。
余計なことを考えずに、ただ“飲める”感覚。
「美味しいですね」
澤口が微笑む。
紗江も小さく頷いた。
二人はグラスを軽く合わせ、次に運ばれてくる料理を待つ。
その時間だけは、何も追われず、何も説明しなくていい。
――今はただ、この場所で息をしていたかった。
上品な甘さとジューシーな余韻を残すシードルを前に、
二人は微笑み合いながら、次のワクワクを静かに分かち合っていた。




