第12章 夜に溶けるロゼ
仕事を終えた紗江は、会社を出るとそのまま足を止めずに向かった。
行き先は、Dolce Mare。
特別な決意があったわけではない。
気持ちは驚くほど冷静だった。ただ一つ、自分の好みに合うワインが用意されていると聞いたことだけが、胸の奥で小さく引っかかっていた。
店に着くと、ちょうど海が外に出て、看板に灯りを入れているところだった。
紗江の姿を見つけた瞬間、海の表情がふっと和らぐ。
「朝比奈さん、お待ちしていましたよ」
その声に迎えられ、紗江は軽く会釈する。
「今日のワインが楽しみで、少し仕事を早く切り上げてしまいました」
海は微笑み、自然な動作で扉を開けた。
案内されたのは、店の空気を一番感じられるカウンター席だった。
ほどなく運ばれてきたのは、淡いピンク色のロゼワイン。
バロン・フィリップ・ド・ロスチャイルド。フランス産の甘口だ。
簡潔な説明のあと、海が尋ねる。
「おつまみは、コースになさいますか? それとも一品料理で?」
「シェフおすすめの単品を、三品ほどお願いします」
「かしこまりました」
海がキッチンへ下がると、紗江はグラスを傾けながら店内を見渡した。
客席にはほどよく人が入り、料理とお酒を楽しむ穏やかな空気が流れている。
夜の雰囲気に溶け込むジャズが、心をゆっくりほどいていく。
一口含んだロゼは優しく、料理を待つ時間さえ心地よかった。
やがて、スキレットに入ったカマンベールのアヒージョが運ばれてくる。
続いて、アスパラガスの生ハム巻きカリカリチーズ添え、
じゃがいもとアボカドの冷製タルタル。
どれも丁寧で、レベルの高さを感じさせる味だった。
そこへ、キッチンから三上が姿を現した。
「朝比奈さん、またのご来店ありがとうございます。
今日おすすめしたワインのお味はいかがでしたか?」
「ピンクのワインは初めてでした。フランス産なんですね。
お料理との相性も、とても良いです」
三上は少し照れたように笑い、言葉を選ぶ。
「実は、これからワインをリニューアルする予定でして。
女性のお客様の反応を知りたいんです。
よろしければ、試飲にご協力いただけませんか?
お代やお食事代は結構です。お時間のある時で構いませんので…」
一瞬、間が空いた。
「分かりました。私でよければ」
その返事を聞いた三上は、思わず小さく呟いた。
「良かった…」
なぜか、その様子に紗江まで嬉しくなる。
ワインを三杯ほど楽しんだ頃、田島からLINEが入った。
《これから会えないか?》
紗江の変化に気づいた三上は、そっと視線を海に送る。
海は察したようにうなずき、紗江を店の外までエスコートした。
紗江は名刺を一枚差し出す。
LINEのID番号と、裏には「いつでもご相談ください」の文字。
「これ、三上さんに渡していただけますか?」
海は丁寧に受け取り、うなずいた。
その夜、三上は、手に渡った名刺を見た瞬間、
彼の胸の鼓動は、しばらく収まらなかった。




