第10章 私の部屋で
タクシーを降りると、夜気がふわりと二人を包んだ。紗江と田島は、彼女の住むマンションの前に並んで立つ。足元が少しおぼつかない紗江を、田島は自然な仕草で支えた。
エントランスを抜け、エレベーターで上階へ向かう。静かな箱の中、肩が触れ合う距離に、紗江の胸は高鳴っていた。
カードキーでロックを解除し、扉を開けた瞬間——
あの日と同じ、ほのかに甘いアロマの香りが二人を迎え入れる。
「……懐かしい香りですね」
田島の低い声に、紗江は小さく笑った。
「落ち着くでしょう?」
支えられながら照明を点け、ソファへ向かう。紗江が横たわった瞬間、体勢を崩した田島も一緒に倒れ込んでしまった。
「あ……」
距離が一気に縮まる。
視線が絡み、呼吸が重なり、言葉を探す間もなく——唇が触れ合った。
初めてのキス。
紗江の頭の中には、田島の楽曲が静かに流れていた。
ほんの数秒のはずなのに、永遠のように長く感じられる時間。
そっと唇が離れる。
「……お水、持ってきますね」
田島は照れ隠しのように立ち上がり、キッチンへ向かった。
紗江は胸の鼓動が喉元までせり上がる感覚に、しばらく身動きが取れなかった。
戻ってきた田島はグラスを差し出す。
「紗江さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫……田島さん。もう一杯、飲み直しません?」
立ち上がろうとした瞬間、田島の手がそっと彼女の腕を掴む。
「今日は……もうやめた方がいい」
優しく、しかしはっきりとした声だった。
「……分かりました。じゃあ、ハーブティーを入れますね」
キッチンでお湯を沸かす間、田島の携帯が小さく震えた。
着信画面を一瞬見つめるが、彼は出ることなく、静かに伏せる。
間接照明の柔らかな灯り。
低く流れるsoulのBGM。
窓の外には、宝石のような街の夜景。
二人は湯気の立つハーブティーで、静かに乾杯した。
田島はソファに横たわる紗江の手にそっと触れながら、昔の思い出話を語り始める。その声を子守唄のように聞きながら、紗江の意識はゆっくりと眠りへ沈んでいった。
——翌朝。
携帯のアラームで目を覚ますと、隣に田島の姿はなかった。
テーブルの上に、小さなメモが置かれている。
『おはよう。また連絡します』
紗江はそのメモを胸に当て、カーテンを開けた。
ベランダには、二羽の鳥が寄り添うように佇んでいる。
昨夜のキスは、夢ではなかった。
そう確かめるように、紗江は静かに微笑んだ。




