第003話 慰謝料代わりの廃工房
王城の書記官は、灰灯工房の権利書を渡す時、気の毒そうな顔をした。北の霧に沈む廃屋、壊れた炉、滞納された税、崩れた屋根。彼の説明は、リディアを思い直させるためのものだったのだろう。だが彼女には、廃工房の欠点がむしろ好条件に聞こえた。誰も欲しがらないからこそ、取り返されにくい。
カイルは最後まで勝ち誇っていた。「そんな場所で何ができる」
「契約上は、何をしても構わない場所ですね」
「泣きついても戻してやらんぞ」
「接触禁止条項を入れましたので、泣きつく予定があっても不可能です」
リディアが淡々と答えるたび、周囲の貴族たちは目を泳がせた。断罪する側が、なぜか契約に縛られていく。
セラフィナは悲しげに微笑んだ。「リディア様、辺境で苦しまれる前に、わたくしへ謝ってくださいませ」
「謝罪対象と内容を文書でいただければ検討します」
「そういう冷たいところが、皆様を傷つけるのです」
「曖昧な要求で人を縛るほうが、私は冷たいと思います」
その返答に、聖女の頬がわずかに強張った。
権利書とわずかな持参金を鞄へ入れた時、リディアは貴族令嬢としての生活が本当に終わったのだと実感した。守られていたのではない。飾られていただけだった。飾り棚から落ちた花瓶は割れるしかないと、王都の人々は思っている。ならば割れた破片で、新しい道具を作ればいい。
リディアは廃工房の古い図面も手に入れた。炉、作業台、水路、地下倉庫。閉鎖理由は魔力不足と需要低下と書かれている。だが余白には別の筆跡で、竜骨水路への接続あり、と小さく残されていた。リディアの視界に、また赤い注釈が浮かぶ。見落とされた資源。未整理の権限。危険だが価値がある。
「お嬢様、護衛は」書記官が尋ねた。
「雇う予算がありません」
「それは危険です」
「危険を避けるために王城へ残るほうが、私には危険です」
書記官は何か言いかけ、やめた。彼もまた、この城で長く働いている。安全そうに見える場所ほど、人を静かにすり減らすことを知っている顔だった。
旅装に着替えたリディアは、鏡の前で髪を結び直した。宝石の髪飾りは売った。代わりに革紐で十分だ。ドレスの裾は短く直し、歩ける靴を履く。似合うかどうかではない。使えるかどうかだ。彼女はその基準を、これからの人生の中心に置くと決めた。
王都の門を出る時、後ろから笑い声が聞こえた。魔力ゼロが辺境へ逃げた。王太子に捨てられた。聖女に負けた。どれも好きに言えばいい。リディアは振り返らない。噂に反論するより、次の町で宿を確保するほうが重要だ。
馬車の揺れはひどく、窓から入る風は冷たかった。けれどリディアは、胸の奥に奇妙な軽さを感じていた。行く先は廃工房。味方はまだいない。資金も少ない。それでも、自分で選んだ道は、誰かに決められた豪華な檻よりずっと息がしやすい。
日が傾く頃、鞄の底でカイルの手紙がかすかに光った。催促の魔法印だ。リディアはそれを取り出し、封を切らずに羊皮紙へ包む。「緊急ではない案件」と書いて、鞄の一番下へ戻した。




