第72話 浴場 後編
かぽーん。
などという擬音は温泉ではないここで鳴るわけがないし、きっと温泉でもならない。
しかし、ここは温泉ではなくても浴場ではあった。
決して欲情ではない。それを間違えるとこの物語(になるかどうかすら怪しい俺の人生……)が健全な大人の目にしか触れなくなってしまいかねない。
で、浴場。
俺が決して嘘ではなく目を完全に閉じていた間に、俺の説明した通りに自身の身体を洗い終えたシンクの髪だけを洗ってやって――シャンプーとコンディショナーが複雑で分からないと言われた。おい神様――まあとりあえず緋奈が沸かしておいてくれた浴槽に浸っておけと言った。
神様はちゃんと言うことを聞いてその華奢で女性らしい身体をいい湯加減であろうお湯に沈めた。その際に、
「タオルは取った方が?」
と、脚だけを浸した状態で聞いてきたので俺は思いきり首をブンブンと横に振って、公共の入浴施設ならともかく家庭の風呂ではその必要はない、ということを力説した。
ここまでに存分に疲弊したのだが、とりあえず沈んだシンクは「ふぁ~……」と息を吐いて気持ち良さそうにしているので、これ幸いと俺も自分の身体を洗った。
そして、今現在。
俺はシンクの使っている浴槽の横で立ち尽くしていた。
入って良いのか? これ。
「蒼くん、入らないのですか?」
シンクがなんとなしに聞いてくる。
いや、それは俺だって入りたいよ。
湯船にゆっくり浸かる主義だよ。
しかし……。
「女の子と同じ浴槽に入るのはセーフか? アウトか?」
遂に脳で処理しきれなくなったのか、思ったことがそのまま口をついた。
それを聞いたシンクは、無表情な癖にどこか呆れたような雰囲気を漂わせている。
「人間て、大変なんですね……」
「うるさい。いや、俺には過去にも女の子と風呂に入った記憶がある……。あれは幼少の頃緋奈とだったが、しかし男女は男女、大人になろうとそれは変わらない。待て待て、そもそも俺は大人か? 高校生を大人として扱うのはいささか無理がある気さえする……。一般的な大人と子供の境界線を成人とするなら、俺はまだ子供。よし、行ける!」
葵蒼汰は自分を納得させることに成功した!
「じゃあシンク、俺も入るからそっち側に寄ってくれ」
シンクは俺の指示通り、浴室の奥側に移動し俺の入るスペースを作ってくれた。
足の爪先から入り、ゆっくりと身体を下ろして行くと俺の体積の分のお湯が湯船から溢れていき、やがて俺は肩までを浸した。
そこまでは良かった。
「うっ」
「どうかしましたか?」
「あ、いや、向かい合って入るのはあんまり良くないな……視覚的に」
「ああ、また欲情問題ですか」
「はっきり言うなよ」
「ふふ、それなら私に良い案がありますよ、蒼くん」
「お、マジ? なんだよ、それならさっさと言えよ」
「まあまあ、百聞は一見にしかないですからね――」
そう言ってシンクは大人(体型的な意味で)二人で入るには少し狭い浴槽の中を動き始めた。
何をするのか少しの不安もないと言えば嘘になるが、相手は概念の具現たる神である。神様を信じてバチが当たるということはないだろう。
ということで、俺は黙って成り行きを見守った。
結果。
神様に天罰を下された。
信じる者は救われる、というあの言葉がなんの信憑性もないということを思い知らされた。
簡単に説明すると、シンクは二つの動作しかしていない。
にも関わらず、俺をここまで追い詰めるなんて、そこは流石神様言うべきか。
シンクは俺に背を向けて、俺の身体に寄り掛かっただけだった。
「どうですか? これなら私の身体があまり蒼くんの視界に入りませんし、二人共脚を伸ばせます」
得意気に言ってはいるけれども。
「なあシンク、俺達って本当に精神的にリンクしてるの?」
全然通じあっている気がしない。
この苦悩絶対伝わってない。
「しています。えーと、あれ……おかしいですね。蒼くんは今、『距離近い柔らかい良い匂いする!』と、とても興奮しているようで?」
「なぁ、それを口に出しちゃうと俺変態みたいだからさ……。まあ、距離感と触覚と嗅覚のコラボレーションが視覚を遥かに凌駕するということに気づいてくれたのは良いんだけど……」
なんでか知らないけどシンクによって俺の腕がシンクの身体を抱きしめてるし。
ラブラブ全盛期のカップルかよ……。
「本当に難しいです、人間というものは……。仕方ないです、ここは奥の手を使いましょう」
そんなものがあるなら最初から使ってくれ。
「どうですか?」
「へ? 今何かしたの?」
見た感じ何も変わっているようには見えないが。
しかし。
「あれ……?」
ゼロ距離でシンクの身体の柔らかさは確かに感じている。
さっき洗ったばかりの濡れ髪はシャンプーの香りと、仄かにシンク自身のものなのか女性らしい香りがする。
冷静に見てみれば視覚的にもまったく改善されておらず、むしろ俺に背を預ける形になっているせいでシンクの全身が目に入っていた。
が、しかし。
「全然、興奮しない……」
驚きの白さだった。俺の心が。
「ふふ、どうやら上手くいったみたいですね」
「一体何をしたんだ?」
「私の行使権限で蒼くんを、『性的魅力を感じるのに興奮しない』という風に矛盾させました」
「なるほど、そうか……」
確かにそれはこれ以上ない奥の手であるし、状況は解決したと言える。
だがしかし、なんというかこれは……。
「なんか、これはこれでめちゃめちゃ自分に幻滅するな……。男として終わった気がする……。いや、いいんだけどさ」
俺に抱きすくめられたままのシンクは再三、人間て難しいですね、と呟いた。




