第70話 神様のお願い
記憶が欠落する症状の患者が増えているという話も、どこかおかしい叶の様子も気にはなったが、それでも俺は普通の人間らしく普通の人間と同じで、日常を無視することは出来ない。
というわけでいつも通り帰宅した。
まあ、帰宅しなかったからといって出来ることがあるわけではないのだが。
人間一人の力は、大きいのか小さいのか。
やろうとすればなんでも出来そうな気はするが、やろうとしなきゃ何も出来ない気もする。
全ては心が決めることなのかもしれないな。
なんて、無駄にセンチメンタルになりながら、俺は可愛い相棒であるアイソドシンクと共に家の玄関をくぐった。
「ただいまー」
「ただいまです」
想響ではなくちゃんとした声でシンクも挨拶をするが、それはこの家では俺にしか聞こえない。
「はい、おかえり」
言ってあげないとなんとなく可哀想なので俺が言ってやる。
シンクは満足そうに微笑んだ。
最初は無表情な奴かと思ったが、親しくなってくれば少しは表情を変えるようになったよな、こいつも。
「あ、お兄ちゃんおかえりー」
少し遅れてダイニングの扉から緋奈が顔を出す。調度夕飯を作っているのだろう、通っている伏見女学院の上下白の制服の、ブレザーだけを脱いでワイシャツの上にエプロンドレスを身に着けていた。
うん、妹じゃなかったらすごいグッと来るんだろうなぁ。いや、妹でも来るものはあるのだが。
「今調度ご飯作ってるんだけど、もう少し掛かるからお風呂入っちゃったら? もう沸いてるよ」
「そっか、じゃあそうしよっかな」
本当に出来た嫁……じゃなかった、妹である。変な起こし方をする性癖さえなければもう完璧なんだけどな。
「蒼くん蒼くん」
とりあえず手洗いうがいをしようと洗面所に向かおうとした矢先、シンクが小声で話し掛けてきた。
「ん?」
「あの、お風呂なんですが、私も一緒に入っても構いませんか?」
「はあ!?」
構うわ!
「というのも、以前から蒼くんがお風呂に入っているのをこっそり覗いていたんですが――」
「覗いてんじゃねーよ!」
「お湯に浸かる、というのがどういう感覚なのか興味を持ちまして。知識としては知っていても、やはり自分で体感してみないと真実には迫れないので」
「真実に迫る必要があるか?」
「真実はともかく好奇心は満たされません」
「瞬間的に動機をすげ替えるな!」
「お兄ちゃん、どうかしたー?」
ダイニングの方から声がしてドキる。
やばい、このまま一人で(いや本当は神様相手だけど!)騒いでいては妹に頭がおかしくなったと思われてしまう……!
「な、なんでもない!」
「しかし、私は人間の入浴の作法を知りません。なので蒼くんにご教授いただければと……」
俺と緋奈のやりとりを綺麗に無視してシンクは続ける。
「分かった……後で口頭で説明するから、俺の後に――」
「蒼くんと一緒がいいです」
俺が言い終わるより先に言いやがった。
「ダメですか?」
はい、とどめの上目遣い。
いや、こいつ本当は人間なんじゃねえかと思うくらい、男心を分かってないか?
とどのつまり。
「分かったよ……」
あろうことか、俺は頷いてしまった。




