第64話 強さの中の弱さ
緋奈が着替えや細々とした必要と思えるものを持ってきてくれて、しばらく談笑し、そして緋奈が帰って少ししてから夕飯となった。
病院の食事は特別美味しいものではなかったが、食事をとることが出来るだけでも有り難いことなのだと、一人だとそんなことを考えてしまう。
生きているだけで、幸せなことだ。
そしてすぐに夜がくる。
病院の消灯時間は蒼汰が思ったよりも早く、普段そこまで早寝をしない蒼汰はベッドに座って窓の外を眺めるしかなかった。
蒼汰の入院している病室は十階建てのこのビルディングの、半分よりも下の四階である為、まだかろうじて街の様子が見てとれる。
とはいえ、太陽が完全に沈んだこの時分ではほとんど人気はなく、道路沿いに立つ街灯が寂しげに光を放つばかりである。
一人は、どうしようもなく静かだった。
横になり目を閉じてみると、そこには静寂と闇しかなくなった。
慣れないシーツの匂いが、蒼汰の心の奥底にある不安を、くすぐって起こした。
死にたくない。
俺は、死にたくない。
死にたくはないんだ。
頭の中で幾度も反芻する。
だがその言葉を心で唱えることで、その実感を伴わない恐怖はむしろ肥大化していく。
人はいつか死ぬ。
それは当たり前なことで、当たり前に思えることこそが真理であるなら、どうしてそれほどに怯える必要があるのか。
答えは、至極簡単だ。
俺は、この世界が好きなんだ。
そんな世界と関われなくなることが。
この場所から自分という存在が消え去ることが。
怖くないわけがない。
人は死ぬ為に生きているのだと、どこかで耳にしたことがあった。
その時は『そういうもんかぁ』と半分聞き流していたが、今なら分かる。
それは、違う。
人は、生きる為に生きている。
“今”という時間を、“此処”という空間で。
だというのに俺は、自ら死に近づいてみせたのだ。
生きたいくせに。
居なくなりたくないくせに。
ああ、これが矛盾だ。
人は、矛盾する生き物だ。
生きる為に、その歪みを生み出すのだ。
それは、別に悪いことじゃない。
仮に悪なのだとしたら、必要悪というものだ。
支離滅裂も本末転倒も自家撞着も。
あっていい。
だから俺は、間違ってはないんだ。
生きたいけど。
下手すれば死んじゃってたかもしれないけど。
それでも、死ぬより嫌なことだってある。
だからその為に命を削ったとしても、それは何もおかしなことじゃない。
そうだって、分かってる。
分かってるけど。
やっぱり死にたくないんだ。
「シンク……」
乱雑な思考の果てに、気付けば蒼汰は全身真っ白な相棒の名を呼んでいた。
無音の中で急に響いた自身の声は、情けないことに掠れていた。
「シンクっ……」
だがそんなことはどうでもよく、蒼汰はただ、あの無表情に会いたかった。
《矛盾》そのものである彼女なら、きっとこの矛盾も受け止めてくれるはず、そう、信じて。
「アイソドシンク!」
少年はその名を叫ぶ。
「なんですか?」
「うわあ!?」
蒼汰が驚くのも無理はなかった。
なぜなら蒼汰のものではないその声は、蒼汰のすぐ耳元で聞こえたからである。
当然のように心臓が跳ねあがり、それと同時に反射的に目を開けた。
吐息が左の頬に掛かる。
「な、なにしてんだ、シンク……」
声の聞こえた方向――左側を向けばきっと唇が触れてしまう。それ故に蒼汰は身動きが取れなかったが、それでもその声だけで、それがアイソドシンクのものだと分かった。
「何って、私はずっと蒼くんの傍に居ましたよ?」
傍、というには距離が近すぎる。
アイソドシンクの身体は蒼汰の方を向いていて、蒼汰の左の二の腕辺りには柔らかな胸が食い込んでいるし、その先の手は無防備な内ももに挟まれていて、そして脚と脚は絡み付いていた。
「ずっとって……レクシアがお前の姿が見えないって言ってたぞ……」
ドクンドクンと響くものが、自分のものなのかアイソドシンクのものなのかが、蒼汰には分からなかった。
「それはまあ、そういう風に力を使ったので。私は矛盾の核神ですから。蒼くんとシアがその話をしている時も、私はここでこうして居ましたよ」
「え、いや、居なかったけど?」
「気付いていなかっただけです、蒼くんも、シアも。私は、蒼くんがこの部屋に運び込まれてからずっと、蒼くんにしがみついて居ました」
「どうして、そんなこと……」
核神の瞳が揺れた。
「蒼くんが何処かに行ってしまうのが、嫌だったからです」
その言葉は、蒼汰の心を確かに突き刺した。
「……行かねえよ、何処にも」
「嘘です」
「嘘じゃ――」
「嘘です」
蒼汰は、自分の嘘の下手さ加減を呪った。
「別に、蒼くんの嘘が下手だからそう言ってるわけではないです。私と蒼くんは同質化していますから、蒼くんの思いが私に流れ込んで来たんです」
「そんなことが、あるのか?」
「同質化とは、ただ単に同じ力を共有するということではありません。干渉者と核神の、存在と存在を繋ぐものなんです。それは契約のようなものです。どちらかの存在が消滅するまで切れることのない縁。繋がったもの同士はほとんど同一の存在なんです」
「そっか……」
蒼汰の中で、同質化という事象がどういうものなのか、ようやく腑に落ちた。
「一心同体なんだな、俺とお前は」
「はい。あなたは私の半身です。私は蒼くんで、蒼くんは私なんです。だから、自分の感情や想いが分からないわけがないでしょう?」
「そうかもしれない。けど実際、分からないことはあるけどな。自分が何をしたいのか、とかさ」
「それは分からないフリをしているだけです」
「あはは……矛盾してるなぁ」
「人間は皆、矛盾します。そういう生き物なんです。自分がなにをしたいのか、なんてそんなこと本当は最初から明確な答えが出てるんです。ただ、その答えが正しいのかが分からないから、人は迷うんです」
「やりたいことが本当に正しいのか、ってことか。難しいよな。だって、誰がそれを決めるんだって話だ」
「物事の正否を決めるのはいつだって個々人です。だから結局は、自分の出した答えを信じるしかないのだと思います、人間は」
「そう……そうだよな。…………ん、ていうか、じゃあお前知ってたのか? 俺がしようとしてたことを……」
「当たり前、です」
「当たり前か……」
「『不治の病を治す』……なんて、私には無い発想でした。まあもしあっても、私では人間に行使権限を働かせることは出来ないんですが」
「ああ、上手くいって良かったよ」
微笑みながらそう言う蒼汰の首もとに、アイソドシンクは無言で白い髪を擦り付けた。その仕草はまるで何かの動物の求愛行動のようだった。
「ちょ……シンク……。そういえば、こんなに密着してるのもあれか? 俺とお前が一心同体っていうアピールなのか?」
「……そうです」
「今、嘘ついたろ」
「つきました。分かっちゃいましたか」
「いや、分かんないからちゃんと口に出してくれ」
「嘘です」
「嘘だけど、頼むよ」
アイソドシンクは、珍しく『ふぅ』と溜め息を吐いた。
「寂しかったからです」
蒼汰はやっと、触れてしまわないように注意しながら身体をアイソドシンクの方に向けて、目を合わせた。
「俺もだよ。俺も、寂しかった。この温かい世界から居なくなっちゃうかもしれないことが」
「知ってます」
「そっか」
それ以上、言葉は必要無かった。
アイソドシンクは蒼汰の頭を胸に抱えるように抱き締める。
すると蒼汰は、今まで堪えていた感情の箍を外して、目からそれを溢れさせたのだった――。




