第62話 天秤にかけるまでもなく
光がやたら眩しく感じ、視界がぼやける。
細めている目に映っている光景には見覚えがない。
白い壁、白いカーテン、白い天井。
どうやら自分はベッドに寝ているらしいと、葵蒼汰はようやく気付いた。
だがしかし、それが何故なのかは判然としない。
この状況に到る記憶がない。
確か、病院の屋上で音織柊榎と話をして、それから……?
俺は一体、どうしたんだ?
少しもやの掛かる頭でそこまで思考した時だった。
「んん…………」
すぐ近くで呻くような声がした。
少し首を動かして声のした方向、ベッドの縁、自分の脇腹あたりに目をやると、そこに突っ伏していた見覚えのある少女が、ちょうど目を覚ますところだったらしい。
ぱちり。
目が合った。
「緋奈、おはよ」
いつもの朝よりも遥かに穏やかに、最愛の妹に朝の挨拶をした。しかし、それを受けた妹から同じものは返ってこなかった。
「お………」
おはよう、ではなく。
「お兄ちゃんっ!!」
だった。
それに加えて思いきり飛びついてくるものだから、蒼汰は無論嫌ではないが驚愕は禁じ得なかった。
「うおお、どうしたんだいきなり? 奇跡の再開でもあるまいし……」
「奇跡だよっ……充分。何日寝てたと思ってるの?」
蒼汰の胸元に顔を埋めながらそんなことを
聞いてくる妹に、蒼汰の頭は疑問でいっぱいになった。
「え、待って……何日とか、そんな単位で俺は寝坊したのか?」
だとすれば、もう病院に行った方がいいレベルである。
「寝坊って…………覚えてないの? お兄ちゃん、この病院の十階で倒れてたんだって」
「この病院? ………あ! ここ病院なのか!」
「もしかして、今気付いたの?」
ブラコンである緋奈だが、流石にそれには呆れ顔だった。
「いや……見たことない場所だなー、とは思ってたんだけど……」
「もう、呑気なんだから……。お兄ちゃん、三日も眠ってたんだよ?」
「三日!? マジか……あはは」
蒼汰としてはある程度覚悟をしていたこととはいえ、これほど早くここまで顕著に“その反動”が出ることは予測していなかった。
まあ、見積もりが甘かっただけの話である。
「本当に……本当に心配したんだから」
呟くように放たれた緋奈のその声が、空気の濃度を上げた気がした。
気付けば、蒼汰の胸元は微かに濡れている。
「ごめん」
それ以外の言葉は出ない。
その代わりに、艶やかなその赤っぽい髪を、しばらくの間優しく撫で続けた。
* * *
その後、緋奈が担当の医師を連れてきてくれたので話を聞いて、それから検査を受けることになった。
その最中、緋奈はずっと不安そうな顔をしていたが、『異常なし』という診断結果が出ると、ようやくその表情を弛緩させた。
身体的異常は特に見られないが、しかし今回の気絶の原因が不明の為、何か異変があればすぐにまた来るようにと、歳は若そうだがやたら落ち着いている感じの男性医師には念を押された。
一応頷きはしたものの。
当の蒼汰には、なんとなくその原因が分かっていた。だから別に、不安なことは特になかった。
さらに念には念を、ということで、今週一杯の入院を進められた。最初蒼汰は辞退する気まんまんだったのだが、妹の緋奈が勝手に『是非ともお願いします』と話を進めてしまったので、目が覚めた個室のベッドに逆戻りという運びとなった。
ずっと眠っていたということで、空腹がピークになっていた蒼汰の為にと特別に用意してくれた食事を、あっという間平らげる。
そんな兄を見守ってから、『お兄ちゃんの着替えとか持ってくるね』と言い残して一時的に緋奈が帰宅すると、急に静寂が訪れる。
蒼汰はベッドごと上体だけを起こして、窓の外の空を見ていた。
病院は、静かだ。
まるで時が止まっているかのように。
しかし、窓の外からは風がちゃんと吹き込んでくるし、時計が秒針を動かす音もしっかりと聞こえている。
良かった。
そう思って少し溜め息を吐くと、急にドアをノックする音が響き、反射的にそちらを向いた。
「どうぞー?」
入院の経験のない蒼汰は、こういう時どう返したら良いのかがよく分からず、とりあえず無難かと思える応答をした。
すると、あまり音の立たない引き戸を開けて、そのノックの主が姿を見せる。
「や。お兄さん、目が覚めたんだね」
「おー、楸か」
明るい茶髪を左右で緩めに三つ編みにした少女は、コクリと頷きながら後ろ手でドアを閉めた。
「もう、びっくりしたよ。お姉ちゃんと一緒に屋上から下に降りたらなんか大騒ぎになっててさ、どうやら人が倒れたみたいって思ったら、それがお兄さんだったから」
「お、心配してくれたのか?」
少しふざけてそう聞く蒼汰に、だがしかし楸は、真面目な顔を崩さずに答えた。
「そりゃあまあ、命の恩人に死なれるのは嫌だからね」
「死なれるって、大袈裟だなぁ」
「大袈裟かな」
「大袈裟だよ。…………それに、別にお前の命は救ってないだろ?」
「お姉ちゃんの命は私の命と一緒だよ」
「すげー理屈だな。けど、ってことは上手くいったのか?」
楸は頷く。
「じゃなかったらもうここの時間は凍結してるって。いやーもうね、担当の医師の驚きようったらなかったよ。検査したら、お姉ちゃんの身体から悪性の腫瘍が跡形もなく消えてたらしいからね」
「そりゃあ驚くわな……。まあでも良かった、あの子が元気になってくれたなら」
「助けてもらっといてこんなことを言うのはなんだけど、お兄さんも物好きだよね」
「何がだよ」
「いや、普通の人は見ず知らずの他人の為に自分が犠牲になったりはしないでしょ?」
「別に……犠牲になったつもりはない。ただ俺は、自分に力があって、それを必要としてる奴が目の前にいるなら、迷わずに助けたい。それだけだよ。そう出来ない自分が、自分で嫌なだけだ」
「ふーむ、損する性格だね。お兄さんは」
「自分がしたいようにしてるんだから、損してるわけねえだろ」
その返答を受けて、楸は思わず吹き出した。
「あっはは! これはこれは、お兄さんには一本取られたよ」
「別に笑うところじゃないんだけど……。ところで、柊榎ちゃんは?」
蒼汰は柊榎の名前を出すと、楸は急にジト目になって蒼汰を見た。
「ん、なに? お姉ちゃんに会いたいの? なんか私の知らないところで友達になったらしいけど」
「え、あれ、なんか怒ってる?」
「いーや別に? いいんだけどね。で、何故かお姉ちゃんの話で私とお兄さんが友達になってたのはなんで?」
「やっぱ怒ってるんじゃん!」
「怒ってないよ」
「いや、顔! 顔が怖いから! 仕方なかったんだよ、柊榎ちゃんに話し掛ける自然な理由が見つからなくてつい……」
項垂れる蒼汰の頭に、楸は小さな手をポンと置いた。
「まあ、だから怒ってないよ。お兄さんは友達だからね、それくらいは許してあげるよ」
「え?」
思いもよらぬことを言う楸の顔を確認しようと、蒼汰は目線を上に向ける。
「なってくれって言ったでしょ、友達に」
「いいのか?」
「いいよ。お兄さんみたいな人、私は嫌いじゃないし。それに、お姉ちゃんの友達なら既に私の友達だよ」
そう言って、楸は蒼汰の頭から手をどけた。
「お前は本当に、お姉ちゃん大好きなんだな」
「大好きだよ。世界なんかどうでもよくなっちゃうくらいにね」
「そうだったな」
初めて見る楸の満面の笑みにつられ、蒼汰も自然に笑っていた。




