第61話 副作用
その少女は、屋上のフェンス近くで空を仰ぎ、そして綺麗な声を周囲の空間に響かせていた。
ゆっくりと、蒼汰は近付く。
遠くから見て小さかったその体躯は、残り五メートル程の距離まで来ても小さく感じた。
華奢過ぎる身体、薄水色のパジャマとニット帽。
その格好が既に病人あることを充分に物語っていたがそれ以上に、すぐにでも消え入ってしまいそうな蝋燭の灯火を思わせるオーラを纏っていて、きっと大抵の人間はその姿を見ただけで物悲しくなってしまうだろう。
だが蒼汰は、とても穏やかな心境だった。
それは蒼汰のメンタルが強靭だからではない。
歌が、そうさせるのだ。
その少女――音織柊榎の、喉の奥から発せられるその音が、メロディーが、この辺一帯の空気を優しいものに変え、自身の醸し出す雰囲気を紛らわせていた。
「っ……あの!」
その一曲を聞き終えてからハッとして、蒼汰は後ろから声を掛けた。
だがしかし、少女は蒼汰の方を振り向いて視線をさ迷わせると、首を傾げて前を向いてしまった。
「あ、そうか……今普通の人間には見えないんだな、俺」
えーと、と頭の中でアイソドシンクの施したこの状態を解除するイメージを働かせる。
こうで、こう……で、こう?
感覚だけを頼りに、行使権限の打ち消しを図る。
するとやがて、スッと、蒼汰は周囲の空気がクリアになったように感じた。
多分うまくいったかな? と半信半疑で、もう一度声を掛けてみる。
「あのー……」
すると、少女は振り向くや否や。
「わ、お兄さん、いつからそこに居ました? 今急に現れました?」
線の細い少女は、驚いた顔でそう言った。
身なりこそ病人ではあるが、流石に芸能界にいただけあって顔立ちは整っていた。
「そ、そんなわけないだろ? ちゃんとゆっくりと歩いて、あそこのドアから入ってきたんだよ」
「そう、ですか」
納得がいっていない様子だが、とりあえず柊榎は頷いた。
「えっと、私に何か用ですか? もしかして、ファンの方とか?」
「あー、いや、そういうわけじゃないんだけど……」
思えば、この場合なんと言えば自然なのかが、蒼汰には分からなかった。
どう説明したらいいか悩んでいると。
「あはは、少し自意識過剰でしたね。いや、たまにそういうことがあるんですよ。ホントです。私今はこんなですけど、前はテレビとか出てたんですよ」
自嘲気味に笑ってから、言い訳っぽくそんなことを言う。
話した雰囲気では、体調は悪そうには思えないが、やはり顔は大分やつれている。
「いや、まあファンではないんだけど、芸能人てことは知ってるよ。俺は楸の友達で、葵蒼汰っていうんだ。よろしく」
「それは……ホントですか!?」
目を見開いたかと思うと、柊榎は急に叫んだ。
「え、うん……まあ」
気圧されながら蒼汰はコクコクと頷く。
本当は、友達になったという事実はないが、嘘の苦手な蒼汰は友達だと思い込むことにしたのだった。
「良かったです! あの、蒼汰さん、これからもあの子……楸ちゃんのことをよろしくお願いしますね!」
「お、おう、それはまあ友達だからな! これからも仲良くしていくよ!」
実際は仲良くしていたことなどない当の楸はというと、未だドアところで二人の方をじっと見ていた。
蒼汰が柊榎におかしなことをしないか、気を張っているらしかった。
「楸ちゃん、ずっと友達が居なくって……心配してたんです。楸ちゃんは可愛いんだから、愛想よくすればすぐに友達が出来るはずなのに。でも楸ちゃんは、『お姉ちゃんが居るから友達なんていらない』って、意固地だったんです。私はもうそんなに長く、この世界には居れないのに」
蒼汰は息が詰まった。
こんな、まだ大人には程遠い少女が自分の死期を悟っていることが、その事実が、どうしようもなく胸を締め付けたのだ。
「でも、そっか、やっと出来たんだ……。ありがとうございます。あの子と友達になってくれて」
やはり、嘘をついていることに蒼汰は罪悪感を覚えた。
だから、その罪滅ぼしとして、蒼汰は楸とちゃんと友達になろうと心に決めた。
「俺も友達に、なりたかったから」
なりたいから。
「もし良かったら、柊榎ちゃんも俺と友達になってくれないか? せっかくこうして会えたんだし」
蒼汰のその申し出に、柊榎は虚ろな瞳で微笑んだ。
「ありがとうございます。でも、私とは友達にならない方がいいです。あんまり仲良くなると、後で悲しませちゃいますから」
「何バカなこと言ってんだ」
いきなりの蒼汰の暴言に、柊榎は元から丸い目を更に丸くした。
「友達なんだから、悲しませたっていいだろ。傷付けたって、迷惑掛けたっていいだろ。それを許し合えるのが、友達ってもんだろ。俺はそう思うけど」
「………………。ふむ………なるほど。蒼汰さん――」
「え?」
「よければ友達と言わず、楸ちゃんの旦那様になってくれませんか?」
「はぁ!?」
「うふふ、ひとまずは冗談です。まだ若いですからね、時間があるのならゆっくり考えるのが大事です。ですが、可能性の一つとして検討をお願いします」
そう、いたずらっぽく笑う。
「はぁ、まあ分かりました。考えるよ。全ての可能性は否定できないからな。つっても楸が嫌がるのは間違いないけど……」
「どうしてです?」
後半ぼやくように言った蒼汰の言葉を、柊榎は聞き逃さなかった。
「あーいやこっちの話。……その代わり、俺と君は友達決定ってことで、いいよな?」
「ん、分かりました」
柊榎は笑顔で頷く。
「じゃあ、握手しようぜ。これからよろしくってことで」
柊榎は差し出された蒼汰の手を見詰めた。
病人というだけで、触れることを忌避されることが多かった。
柊榎にもその気持ちは分かる。
ウイルス性の病気だったら感染してしまうかもしれないし。
そうじゃなくても、どこか壊れそうで、触れてはいけないような気がしてしまうのだ。
病人でありながら、ここに入院している中で人間とはそういうものだと、柊榎は冷静にそう思っていた。
けど、そうですよね。
こういう人も居るってことを、私は忘れていました。
別に、どちらが良いっていうことでもないですが、少し――。
「はいっ」
元気に返事をして、柊榎はその自分よりも大分大きな手を握った。
少し。
ほんの少しだけ。
嬉しかったです。
* * *
「上手く行ったの?」
音織柊榎と晴れて友達になった葵蒼汰は、用事を思い出した、と言って柊榎から離れた。
屋上を去ろうとドアまで来ると、待機していた楸と目が合い声を掛けられた。
「ああ……多分。手応えはあった」
「多分、か。まあダメだったらその時は私の計画を遂行するだけだけどね」
「そうか……仕方ないな」
やたら物分かりのいい蒼汰に、楸は首を傾げた。
「ねぇ、なんかお兄さん、顔色悪くない? 大丈夫? やっぱり――」
その先を、蒼汰は遮った。
「大丈夫だ、心配するな。全然元気だよ。ただ、柊榎ちゃんが気を失いそうなくらい可愛かったなって」
「む。お兄さん、お姉ちゃん手ぇ出したら許さないからね?」
「あはは、まあお姉ちゃんにもその気は無さそうだからそれも安心しろ」
何しろ妹を薦めてくるのだから。
「あ、そうだ俺の計画が上手くいった暁には、一つ頼みたいことがあるんだが」
「はぁ? あとからそういうのって狡くない? 別にお兄さんが好きでやったことでしょ? ……けどまあ、とりあえず聞くよ」
「そっか、ありがとう。じゃあさ、お前俺と友達になってくんない?」
「へ?」
「ダメかな?」
「いや、え、なんでそういうことに?」
「別に。嘘を本当にしたいこともあるってことだ」
「……意味が分からない」
「まあいいよ。すぐに答えをくれなくても。考えといてくれ。じゃあ、俺は行くわ」
再び歩き出した蒼汰は、楸の答えも待たずにドアを開く。
楸の制止する声が聞こえた気がするが、それを気にしてはいられなかった。
屋上を後にする。
楸は別段追っては来なかった。
まあ姉の方が気掛かりだろうし、蒼汰としてもその方が都合が良かった。
きっとシロームのところに行ったのだろう、クロナの姿はない。
ふぅ、と一息吐いて、階段を降り始める。
一段、一段、ゆっくりと。
身体がいつもよりなんだか重く感じたが、それはきっと気のせいだと思った。
手摺りに体重を掛けながら、一歩ずつ足を踏み出していく。
何段目かは分からない。
蒼汰は足を踏み外し、階段を転げ落ちてしまった。
そしてそのまま、階段の下で意識を手放したのだった――。




