第39話 ある夏の日の出来事
時間が動き出して、儚になんと説明すればいいか分からず、蒼汰はなにも言わずにひとまず帰ることにした。
帰ってアイソドシンクに話せば、なにか分かるかもしれない。
それにやはり、ただの人間である儚を巻き込むべきではないだろう。
蒼汰はそう思った。
そういうわけで再び儚と一緒に帰路を歩き、電車に乗り、蒼汰と儚の住む街に戻ってくると、家の方向が違う二人はそこで別れた。
駅から家に向かって一人歩く最中、蒼汰はずっと考えていた――。
* * *
あれは、いつだっただろうか。
たしか、一年生の夏頃。
屋上。
白敷叶とのいつもの昼休み。
まだアイソドシンクどころか、千散儚とも出会っていない、そんな時。
「はぁー、今日は購買やたら混んでたよ……」
その日は、残念過ぎることに緋奈が作ってくれたお弁当をうっかり家に忘れてしまったのでよく覚えていた。
溜め息混じりに泣き言をぼやきながら屋上へと出てきた俺のことを、叶は一人で待っていた。
「……………」
のだが、なんかいつもと様子が違った。
叶は目を閉じてなぜか澄ましていた。
何してんだ?
と思いながら叶に近づき、よく見てみると叶の両耳から白い線が垂れ下がっていた。
どうやらイヤホンをして、音楽を聞いているようだ。
メロディーまでは聞き取れないが、微かに漏れる音が聞こえる。
叶が音楽を聴いていることなんて当時の俺としては珍しいことだったので、なんとなく邪魔しない方がいいかと思い、俺は叶の敷いていたビニールシートの上に静かに腰を下ろした。
よほど集中しているのか、叶はまったく気付かない。
待たせておいて先に食事を取るのは流石にどうかと思い、俺は一緒に買ってきたペットボトルのお茶を飲みながら待つことにした。
曲が終わったのか、三分くらい待つと叶は目を開き。
「うわぁ!?」
と悲鳴をあげた。
「来たなら声かけてよ、蒼ちゃん……恥ずかしいでしょ」
イヤホンを外しながら抗議してくる叶だが、当の俺はというと。
「なにが?」
とても空気の読めないやつだった。
いや、今もか。
叶が、呆れ顔プラス溜め息というリアクションをとってきたので、少し気まずさを感じた俺は話題を変えることにした。
「珍しいな、お前が音楽聴いてるなんて」
「そうかな? 家では割と聴いてるよ。違う世界に行きたくて」
「違う世界に?」
俺は首を傾げた。
「あー、こういうこと言うと変な人だって思われるからちょっと嫌なんだけどね……」
どうやら叶は説明することを躊躇っているようだが、俺としてはその意味が気になるので先を促すことにした。
「俺にとっては今更だ。お前が変なやつだなんて、幼稚園から知ってる」
最低のフォローだと我ながら思うよ。
別に誰にそう思われたっていい。
俺はそういう人間だ。
「うん、そうだよね」
叶はそう言って苦笑した。
俺が叶のことを解っているように、叶も俺のことを解っているようで、なんとなく嬉しかった。
「音楽ってさ」
叶は語り始めた。
「一曲一曲が世界なんだって、そう思うの」
俺は黙って聴いている。
「曲ごとに誰かの人生があって、物語があって、世界になってるって思うんだ。メロディーは感情で、歌詞は想いで、歌声は叫びで。自分の気持ちを聴いている誰かに届けようとしている。自分の居る世界を、自分の居場所を、何処かの誰かに伝えようとしている。
だから音楽は、こんなにも人を惹き付けるんだと思う。
だって誰もが、心のどこかで此処じゃない何処か違う世界を、望んでいるから」
「そうかな?」
野暮かとは思ったが、叶の話に少し納得がいかなかった俺は、横槍を入れる。
本当に野暮である。自覚は一応ある。
「俺はこの世界、結構嫌いじゃないぞ。生まれ変わったらまた此処が良いって、心から思える」
そんな風に自分の言ったことを否定されても。
「うん、蒼ちゃんらしい」
叶はそう言って笑う。
「それって本当に、幸せなことだよね」
後に続いたその言葉が本心だったのか、それとも皮肉だったのかは今でも分からない。もしかしたら、そのどっちもなのかもしれないが。
「好きなアーティストとか居るのか?」
「うん、ちょっと前までは特にそういうのは無かったんだけどね」
そう言ってから叶はイヤホンの片方を俺に差し出してくる。
「え?」
「聞いてみて」
幼馴染といえども、イヤホンのシェアとかは普通にドキッとするんだけれども……。
そんな俺の内心にはまったく無関心のようで、叶はもう片方のイヤホンを自分の耳に嵌め込んだ。
ここで俺が躊躇するのもなんか意識しているみたいで変な感じになるので、あくまで平静を装って俺もイヤホンを着ける。
「いくよ?」
叶は俺が微かに頷いたのを見て小型のミュージックプレイヤーを操作する。
そして。
気付けば俺は、違う世界に居た。
目を閉じて、音を感じる。
軽やかでいて深く響くピアノの伴奏。
清涼感のあるメロディー。
繊細な人間の心情を綴った詞に。
訴えかけるような力強さと、聞いた傍から世界が澄み渡っていくような透明感を孕んだ歌声。
この音の中に世界がある。
俺はそれを確かに感じ、だから曲が終わった時には。
泣いていた。
いや、自分でも気付かなかったから嗚咽を漏らしたりはしていなかったけど、なぜか両目から涙が溢れて止まらなかった。
「はい、ティッシュ」
「あ、ああ……ありがとう」
まるでこうなることが分かっていたかのような用意の良さだった。
「すごいでしょ?」
「ああ……すごいな」
心の底からそう思う。
歌で、ここまで心を動かされたのは初めての経験だった。
「音織――」
そう、そこで聞いたのだ。
その名前を。
「柊榎ちゃん、ていうんだよ。まだ中学生なんだ」
音織柊榎。
「楸じゃないのか……」
* * *
その言葉を呟いた時、蒼汰の意識は現実に舞い戻ってきた。
気付けばすぐそこは、もう自分の家だった。




