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矛盾だらけのアイソドシンク ―The World of Paradox―  作者: 天崎澄
第二章 時間乱流編
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第38話 止まった世界の中で

 千散儚は動かない。


 一切の活動をしていない。


 それだけではなく、上空に飛んでいるカラスも、遠くの道路を横切る軽トラックも、近くの家の庭先に根を張る桜の木から舞い落ちる花弁も、何もかもがその動きを止めていた。



「なんだ、これ……?」



 今この場所で唯一動ける人間――葵蒼汰はまったく状況が掴めずにその表情を強張らせていた。



「世界が、止まった……?」



 しばらく呆然としていた蒼汰だったが、とりあえずこのままでいても仕方がないので少し動いてみることにした。



「千散?」



 後ろから声を掛けても、やはり返事はなかった。

 ひとまず儚の前に回ってみる、と。



「うわー……」



 感嘆にも似た声を蒼汰は発した。

 その理由は。



「なんだこいつ、スゲー可愛いじゃん……」



 直前まで照れていた儚は、蒼汰から表情を隠すように足早に進んでしまったのでさっきまでの蒼汰は知りようがなかったが、自分以外が停止している今の状況においては。


 微笑んでいる儚の顔がハッキリと見れてしまった。



「千散も笑うことあるんだなぁ。…………写真撮っとこう」



 そんな場合じゃないことは分かっているので二秒程その是非について葛藤したのだが、結果『異常事態』ということよりも『儚の可愛さ』が勝ったらしい。


 角度を変えて三枚、スマートフォンをカシャカシャならして時間を画面の中に切り取って満足した蒼汰は、ようやく状況の打開について真面目に考え始めた。



「俺だけが動けるのか? なんで?」



 心辺りは、ないでもない。

 こういう人知を越えた出来事とは最近遭遇したばかりなのだ。

 だとすれば、やっぱり……。



核神(コンセプター)絡みなのかなぁ、これも……」



 そう考えると気が重い。

 たったふた晩のこととはいえ、葵緋奈を取り巻く騒動は蒼汰としてもそれなりに頭を悩ませた出来事だったのだ。

 それが解決したときには、ようやく平穏な日々が帰ってきた、と思っていたのに。



「とりあえずどうしようかな、これ……。そういえば、さっきなんか変な感覚があったような」



 来た道の方へ少し戻ってみる。

 この現象が起きる直前、何かを潜り抜けるような感覚が蒼汰を襲った。

 もしあれが、なにか関係しているのだとすれば。


 そう考えながら歩く蒼汰は。



「………!」



 なにかにぶつかり反射的に後ずさった。


 いや、なにもない。

 視覚的には、そこにはなにも存在しないように蒼汰には見える。


 だがしかし。


 恐る恐る、右手を、伸ばす。



 と。



 ぬるり。



「うわっ!」



 まるでスライムのような不可思議な感覚を指先に感じ、思わず腕を引いた。



「これは、なんだ?」



 一人呟くが、止まってしまった世界では反応があるはずもない。


 目にはなにも見えない。

 だがそこには何かがある。


 ジェル状の、膜のようなものが、確かに存在している。


 蒼汰は、予想というよりはほぼ確信的に思う。



 もしかしたら、先程世界が停止する直前に感じた何かを潜り抜けるような感覚はこれだったのではないか。


 なら、もう一度これを潜れば或いは――。


 蒼汰がそう考えた時だった。



「あれ、お兄さん動けるんだね」



 後ろから誰かに声を掛けられた。


 蒼汰は振り向きながら、おかしいと思う。


 この止まっている世界で、自分以外に誰が動けるというのか。


 そこには、カジュアルなジーンズ姿の、明るい茶髪を左右で緩く三つ編みにしたおさげの少女が、肉まんをかじりながら立っていた。



「ということは、お兄さんも私と同じってことか。まあいいや。あ、ごめんね? 今ちょっと実験ていうか練習中で、範囲の指定が上手く出来なくってね。お友達が止まっちゃって困惑してる、って感じだよね?」



 相変わらず停止中の儚を一瞥しながら言う。


 蒼汰にとってはまさに図星だったが、それに加えて今の状況にも困惑していた。



「あの、君は?」



 見た感じでは蒼汰よりも大分年下に見える。

 小学生の高学年か、中学生くらいだろうか。



「え、自己紹介? お兄さん、そういうの普通自分からするもんじゃない?」



 子供に常識を指摘されてしまった。

 まあ確かに……。と、どこか釈然としない感情を持ちながらも、蒼汰は自分から名乗ることにした。



「葵蒼汰、高校二年」



 聞いているのかいないのか、少女は特にリアクションもなく蒼汰の顔を見つめ続けている。

 まるで値踏みしているかのように。



音織楸(おとおりひさぎ)、中学一年生」



「音織さん…………ん? どっかで聞いたような?」



「それはきっと私じゃない」



「あ、そう……」



 楸の謎の断定にたじろぎ気味に頷く。



「いや、名前とかじゃなくって、なんで君は動いてるんだ?」



「それを言ったらお兄さんもでしょ。お互い、あんまり深く関わらない方がいいよ。多分ね」



 どうやら何かを知っている様子の楸だが、どうも踏み込みづらい。

 しかし蒼汰としても儚をこのまま放っておくわけにはいかないし、現状をどうにかしなくてはならない。



「なぁ、君はこの現象に関係しているのか?」



 重要なのはそこだった。

 関係していないのであれば、別に用はないのだ。

 しかし。



「どうかな? 関係しているかもしれないし、関係していないかもしれない」



 蒼汰は怪訝な顔をせずにはいられなかった。


 全ての可能性は否定出来ない、とでも言うのか。



「まあ、とりあえず大丈夫だよ、そのお姉さんは」



「なんでそんなことが分かるんだ?」



 何を知っていると言うんだ。



「もうじきこの停止も解けるからね。だからお兄さんは何も心配せずとも大丈夫だよ。待ってればいいよ」



 根拠は?


 絶対に?


 いや、この世に絶対はないのか。



「やっぱりお前何か――」



 知ってるんじゃないのか?


 そう聞こうと思ったその時、楸は急に踵を返した。



「それじゃあお兄さん。私はもう行くね。もう会うことは無さそうだから『またね』とは言わないけど。元気でね、って言っておくよ」



 そんなことを言いながら、軽く手を振って楸は去っていく。


 なんとなく、呼び止めることは躊躇われた。

 蒼汰から見てすぐ手前の路地を折れて、その姿は見えなくなった。


 ほどなくして。



「葵さん? どうしたんですか、立ち尽くして」



 時間は動き出した。

 待つまでもなく。




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