第29話 葵緋奈
「ねぇお兄ちゃん噛んで。ほら、もっとよく噛んで。じゃないと――」
葵家に、いつも通りの平和な朝が訪れた。
「窒息しちゃうよ?」
普段と特に変わりのない葵蒼汰の部屋。
少しだけ開かれたカーテンから一筋の帯状の光が射している。
蒼汰の横たわるベッドの縁に座る赤毛の少女は、淡いピンクのネグリジェ姿で物騒なことを口ずさんではいるが。
それも含めて、いつもの朝である。
「ん、そう……ちゃんと飲んでね。うふ、おいしい? 良かった、すごい嬉しそう。それじゃ、もう一口……あーん」
赤毛の少女――葵緋奈が、左手に持ったお茶碗から右手に持った箸で米粒の集合体を掬い上げ、そして未だ眠っている敬愛する兄の口へと運ぼうとしたその時。
「ぐ……ごほっ! うぉほっ! げほえほっ!!」
緋奈の兄――葵蒼汰は、むせながら飛び起きた。
そして一通り咳き込んで呼吸を落ち着けると、自分の傍ら、ベッドの上に腰掛ける可愛い妹の姿を見つけた。
「お前は兄ちゃんを殺すつもりか!」
目覚めた第一声がそれである。
恐らくよほど苛酷な環境下で生活していなければ口にすることはそうそうない言葉であろう。
「おはよう、お兄ちゃん」
だが怒られている本人は全く動じない。
あくまでにこやかに、兄の目覚めを歓迎する。
「おはよう。おい、質問に答えたらどうなんだ?」
「嫌だなぁお兄ちゃん、私が大好きなお兄ちゃんを殺すわけないでしょ? 起こしてあげただけだよ?」
まったく悪びれもしない妹が憎々しい。
「あのさぁ、兄ちゃんは人間だからさ、寝てる間に口に白飯放り込まれたら下手すりゃ死ぬからな?」
「だから、噛むように誘導してあげたでしょ?」
「寝てる時に聞こえるわけねえだろうが!!」
「え、お兄ちゃんちゃんと噛んでたよ?」
「嘘ぉ!?」
「本当だよ。そんですごく美味しそうに飲み込んでた」
「バカな……。お前、捏造してるだろ?」
「人聞きが悪いなぁお兄ちゃんは。じゃあ――」
そう言って緋奈が取り出したのは自分のスマートフォンだった。
「動画撮ってあるから、見る?」
「んなもん撮ってんじゃねえ!!」
妹に対して恐ろしいという感情はあるが、それ以上に可愛いと思ってしまう蒼汰はもはや病気なのかもしれなかった。
「もう、お兄ちゃんワガママだなぁ。緋奈は毎日この動画を学校で見て授業に励むことができてるっていうのに」
「こいつ変態だ……」
蒼汰の妹を見る目に軽蔑の色が滲む。
「失敬な。ああ、でもお兄ちゃんにそういう目で見られるの、ちょっとゾクゾクするかも……」
「お前、サドなのかマゾなのか、ハッキリしねえな……」
「うふふ、お兄ちゃん相手ならどっちでも興奮できるよ」
「興奮とか言うなよ、兄ちゃんが興奮するだろ……場所も場所だし」
ベッドの上だし。
しかし、と蒼汰は思う。
“葵緋奈”という存在を巡る例の一件以来、緋奈の兄に対する態度に変化があったように思う。
なんというか。
愛情表現が苛烈さを増している。
蒼汰が妹の為に頑張ったことなど、当の本人は知らないはずなのだから、きっとそれは気のせいなんだろうが、でも事実として緋奈のブラコンぶりは顕著である。
その兄としては、嬉しいような心配なような、複雑な心境抱えているわけだが。
ここはいっそ、本人にちゃんと聞いてみようか。
「なぁ緋奈、お前さ、最近兄ちゃんのこと好きすぎないか?」
うーん、と少し唸った後で緋奈は。
「そうなんだよね、なんでか。ダメかな?」
「いや全然ダメじゃない」
「えへへ♪」
くしゃくしゃと頭を撫でてやると目を細めながら笑う。
そんな緋奈が愛くるしすぎて、だから蒼汰は。
妹と絶対に一線を越えないということを、どこかに居るであろう神に誓った。




