第24話 穏やかな朝
まどろみの中で、鼻孔をくすぐる甘い香りがあった。
何かの花に似ている。
と、葵蒼汰は覚醒しつつある意識の中で思う。
心地よい。
蒼汰の心にその甘美的な匂いをもっと吸い込みたいという欲求が生まれ、そしてそれを留める理性は半分脳が眠っているこの状況では働きようもない。
蒼汰は自分に寄り添って横たえている、温かく柔らかい、人のようなものを無意識に抱き締めた。
直後、ふわりとした感覚が口元に触れ、同時に例の香りが蒼汰の神経を埋め尽くした。
なんだこれ、すごい気持ちいいな……いい匂い、肌触り、抱き心地。まるで女の子みたいな。
女の子、みたいな?
あれ、そういえば……緋奈は、どうしたんだろうか。
今日は起こしに来ないのかな。
昨日は大変だったなぁ。
昨日?
どう……なったんだっけ。
緋奈は……。
「緋奈!?」
夢現を行き来していた思考がそこに辿り着いた時、まるで閃光が走ったように意識が弾け起きた。
瞬間的に開いた目にまず映ったのは紅。
そしてその髪に包まれるようにある小さな顔の中でパッチリと開いている二つの目が、蒼汰の目を見ていた。
「……お兄ちゃん、変態」
「は?」
妹のそんな言葉を受けて、蒼汰は状況を改めて分析に掛かる。
蒼汰の部屋、恐らく朝、ベッドの中。
妹の細い身体はしっかりと自分に密着している。
なんでそんな状況になっているのかが謎だったが、それはすぐに解明した。
蒼汰の腕が、しっかりと葵緋奈の身体を抱き寄せていた。
「妹に、欲情しちゃった?」
「ち、違う! いや、なんでこんなことに!」
「初めてがお兄ちゃんって、世間的にあることなのかな?」
「なぁ、お前は何を言ってるの!? 兄ちゃん何もしねえよ!?」
「ふふふ……」
兄の慌てぶりを見て、妹はさも可笑しそうに笑った。
状況は不可解だが、蒼汰はとりあえず安堵していた。
可愛い妹が、ちゃんと普通に、存在していることに。
「お兄ちゃんごめんね、冗談冗談 」
ひとしきり笑ってから、緋奈は謝罪した。
「いや、いつもはお兄ちゃんの起こし方を前の日に考えておくんだけど、昨日はなんか記憶が無くって。体調、悪かったのかな……」
自身の謎の記憶喪失に対し不思議そうに首を傾げる緋奈に、蒼汰はギクリとしながら口を開く。
「あ、ああ、昨日は俺が帰って来たらお前はもう寝てたよな」
嘘は吐いてない、と心の中で思う。
「うーん、まあそういうこともあるのか……。とりあえず元気になった。心配掛けてごめんね」
「心配したなんて言ってねえだろ……」
「でも、したでしょ?」
「したけど!」
「えへへ……」
どこか嬉しそうに笑う妹を見て、溜め息を吐きつつ蒼汰も笑みをこぼす。
「で? なんでお前、俺のベッドに入ってんの?」
「あ、そうだった。だから、昨日起こし方考えられなかったから、とりあえずお兄ちゃんと添い寝しながら考えようかなって思ってたら寝ちゃって」
「はあ」
『とりあえずお兄ちゃんと添い寝』って、こいつもブラコンだよなぁ。と思いつつも悪い気はしなかったので蒼汰は特に何も言わなかった。
ただ、そんな自分もシスコンであることに気付いてしまい自嘲気味に笑う。そんな兄を尻目に、緋奈は部屋の掛け時計を見ていた。
「あ、お兄ちゃんヤバイ」
「え?」
「急がなきゃ遅刻する」
そう言われて蒼汰も時計を見る。
時刻は、蒼汰がいつも家を出る時間を示していた。
「ホントだ。あー……兄ちゃんは遅刻して行くわ」
「急げば間に合うよ?」
「いや、なんか今日は頑張らなくてもいいかなって」
昨日頑張ったし。と、心の中で言い訳をする。
「んー、まあお兄ちゃんが良いなら良いよ。お兄ちゃんがサボりとか珍しいしね」
どことなく楽しそうに笑う緋奈の頭をポンポンと掌で軽く叩く。
「いやサボりじゃねえから、ちゃんと2時限目から行くよ」
「はいはい。土曜で午前中しかないんだから、せめて居眠りしないようにね」
この兄妹は通ってる高校こそ違えど、どちらも私立校だった。高校にもよるのだろうが、緋奈の通う伏見女学園も馳道坂高校と同様、土曜は午前中のみのカリキュラムになっている。
「寝坊して遅刻して更に居眠りまでしたら、流石に学校なめてるよな……」
「んー、妹の私でもちょっと引くかな……」
「えっ!?」
慌てる蒼汰を見て、緋奈はクスクスと笑う。
「冗談だよ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは本当に私が好きだよね」
「まあ……可愛い妹だからな」
それは何気無い本心からの言葉だったが。
葵緋奈の頬を、ほんのり赤く染めた。
「う……それじゃあ、私は急ぐから。お兄ちゃん、ご飯できてるから温めて食べてね」
急に兄に背を向けると、いそいそとベッドから降りながらそんなことを言う。
まるで顔を隠すようにまったく振り向かずにドアの前まで移動すると。
「お兄ちゃん、大好き」
そう言い残して部屋を出ていった。
はぁ……。
蒼汰の溜め息だけが、時計の秒針が弾き出す音を凌駕した。
妹といえど、いや妹だからか、そういうストレートな愛情表現は。
「照れるわ……」
「本当に仲が良いのですね、蒼くんと葵緋奈は」
「うわぁっ!?」
突如聞こえた声に驚いた蒼汰が上半身を起こすと、ベッドの端に腰掛けている姿が目に入った。
シーツの色と同化しかねない、その白色で統一された露出多めの近未来的外装を纏った美少女は、相変わらずの無表情で蒼汰を見ていた。
「いつから居たんだ……」
端から見れば引くレベルと自覚している妹とのイチャイチャタイムを見られ、蒼汰は恥ずかしさのあまり掛け布団に突っ伏した。
「いつからかと言えば、昨日の夜から居ましたが」
「は?」
「いえ、別に行くところも無かったので、蒼くんの寝顔をただ眺めていました」
蒼汰は恥ずかしいのを通り越して呆れる思いだった。
「なぁ、それ楽しいか?」
「楽しい、という感情がよく分からないのですが、新鮮ではありました」
「あ、そう……」
やれやれ、と思いながら、蒼汰はふと思い立ってアイソドシンクの身体をまじまじと見る。
そんな蒼汰の様子に、当のアイソドシンクは首を傾げるや否や。
「思春期、というものですか?」
「いや、確かに俺はそういう年頃だし、女の子の身体にもそれなりに興味はある。お前も、内面はともかく外見的には美少女なわけだから異性としての魅力をそりゃあまあ感じるけれども、今俺がお前を見ているのは断じていやらしい目で見ているわけではない!」
蒼汰のそんな力説に対してもアイソドシンクは暖簾に腕押しといった感じでまったく動じない。
「そうでしたか。いえ、別にいやらしい目で見てもらっても構いませんが」
「まあ……お前はそうだよな。じゃあ、そうしたい時はそうさせてもらおう」
「どうぞご自由に」
蒼汰は思う。
性的なアプローチに対してまったく抵抗が無いというのも、男としては微妙に萎えるものだなぁ。と。
「あー……で、今見てたのは、もう傷は完治したのかなと思って」
「ああ、そういうことでしたか。私達核神の傷は人間の“ケガ”と違い、“存在力の欠如”を意味しますので、“完治”という表現は不適切かもしれません。“補完”と言った方が相応しいかと」
「なるほど……。じゃあ、補完は済んだのか?」
「はい。すっかり元通りになりました」
「そっか、良かった」
安堵の溜め息を吐く蒼汰を見て、アイソドシンクは再び首を傾げた。
「ん、どした?」
「蒼くん」
「はい?」
「もしかして、私の心配をしてくれましたか?」
一瞬、蒼汰はその質問の真意が分からなくてフリーズした。しかしすぐに、それがただの疑問なのだと気付いて答える。
「心配したよ」
「なぜですか」
「なぜって、言ったろ。俺はお前に好意を持ってるからだよ」
「好意を持っていると、心配になるのですか?」
「そりゃあ……好きな人のことは気になるよ。今どうしてるかなとか、元気かなとか」
「私は人間じゃありません」
「あー……そっか、なるほど。…………んや、今までペットとか飼ったことなかったからさ」
「ペット?」
「うん。こうやって心を通わせるのって人間相手にしかなかったんだよ、今まで」
蒼汰は、気付いた。
「どんな存在だろうと、それがどんな理由だろうと、好きになったモノは大事なんだ」
それが例え神様だろうと、偽物だろうと関係なく。
「そういう、ものですか」
「ああ、そういうものなんだ」
納得がいったのかどうかは定かではないが、核神はそれ以上追究をしなかった。
その代わりなのか、昨日深く自身の身体を抉った斬り傷の、治癒の経緯を語り始める。
「欠けた存在力の補完のしかたは、核神によって異なります。ですが、基本的には与えられた役割を果たすことで、存在力を得ることができます」
「へぇ、じゃあお前の場合、矛盾を回収すること?」
「そうなります」
“回収”がそのまま“補完”に繋がるというのは分かりやすいな、と蒼汰は思った。
「すまん。俺がお前の力を使って治してやれりゃあ良かったんだけど……」
「蒼くんは、シアとの戦闘の後気絶してしまいましたからね」
どうやらそうらしい。と、蒼汰はここにきてようやく、昨日起きた出来事を鮮明に思い出し始めた。
レクシアに土下座をしたところまでしか記憶がない。
ということは、蒼汰はそこで気絶した、ということだ。
「情けないよなぁ、せっかく勝てたのに……」
「そんなことありません。人間が核神に勝てる可能性は極めて低かったと思いますが、それを蒼くんはやり遂げたのですから。それに、同質化したとしても、人の身で行使権限を使うのは恐らく多大な負荷が掛かったでしょうから、気絶で済んだのはむしろ軽いくらいかもしれません」
「マジか……」
それを聞くと、行使権限を過信せずに一発勝負に出たのは正解だったな、と蒼汰は思う。
「けど……レクシア、ちゃんと約束守ってくれたんだな……」
「シアは、とても真っ直ぐですから。嘘を吐くことはなかなかありません。『パラドクスである葵緋奈の存在を世界に固着させ得る可能性』について半信半疑だったようですが、天意による是正もなく成功したことに驚いていました」
「そりゃそうだろうなぁ、今まで無理だと思ってたんだから。お前は驚かなかったのか?」
と聞いてから蒼汰は、『愚問だったな』と思った。なぜなら蒼汰には、もうアイソドシンクがどう答えるかが分かっていたからだ。
「私は、全ての可能性は否定できない、と思ってますので」
ほらね。
蒼汰は心の中で呟いた。
なんていう、穏やかな朝だろう。
蒼汰は台風一過の心地だった。
「でも本当に全部無事に丸く収まってよかっ――ああっ!!」
「どうしました?」
強張る蒼汰の顔を、対照的に緊張感のないアイソドシンクが覗き込む。
「収まってねえじゃん! 家っ!」
一階のリビングの壁、ぶっ壊れてんじゃん!
二階の外もシンクがめり込んでたし!
慌ててベッドから這い出た蒼汰は、自分の部屋から飛び出し、階段を駆け下り、リビングへと急いだ
。
あれを緋奈に見られたらなんて言い訳すればいいんだ! 転んでぶつかったじゃ絶対に済まない。考えろ。そして可能であれば隠蔽する!
勢いよくリビングのドアを押し開けた蒼汰は、巨大な穴の空いた壁を見――ることができなかった。
「はれ?」
「ん、お兄ちゃんどうしたの? なんか慌ててたみたいだけど……」
LDKの入り口に立ち尽くしている蒼汰に、洗面所に居たらしい緋奈が後ろから声をかけた。
「あ、いや……この部屋って朝からこのままだったか?」
兄から突然謎の質問された緋奈は、分かりやすく怪訝な顔をする。
「朝からもなにも、ずっとこのままだよ? ……お兄ちゃん、大丈夫?」
「う、あ……いや、ちょっと寝ぼけてたかも……あはは」
「はぁ、この短時間で二度寝なんて、流石はお兄ちゃんと逆に感心しちゃうけど、なるべく早く学校に行きなよ? それじゃ、私は支度終わったからもう行くね」
そう言ってダイニングチェアに置かれていた学生カバンを持って、緋奈は玄関に向かい。行ってきます、といつもの挨拶をして普通に登校していった。
「直ってる……」
昨日アイソドシンクによって破壊されたはずの壁が今や無傷で、家が建った当初から今の今まで『ずっとこうでした』と言わんばかりの自然さで、確かにそこに存在していた。
「慌てていたようですが、どうしましたか」
概念の塊のくせに律儀に階段を使ってきたらしく、遅れてアイソドシンクが部屋に入ってくる。
「いや、あのさ、俺の記憶が確かなら、お前昨日ここの壁吹っ飛ばさなかったっけ?」
恐らく人間にすることはないであろう蒼汰からの質問に対して《矛盾》の核神は。
「そこの壁は、破壊しましたが壊れてはいません」
安定の矛盾回答をしてくれた。
「うん……ちょっとお願いしていいかな?」
「なんでしょう?」
「分かるように説明してくれ」
「分かりませんでしたか」
分かるわけねえだろ、と蒼汰は思った。
「核神は皆、感覚領域という物を持っています。これは人間にも備わっている視覚、味覚、嗅覚、聴覚、触覚、すなわち五感とは別に、一定範囲内の自分以外の核神を感知することが出来る六つ目の感覚器官です。一定範囲というのは具体的に言うと――」
「ちょっと待った!」
「なんでしょう?」
「『なんでしょう?』じゃなくってさ、俺が聞きたいことと違うような気がするんだけど……」
アイソドシンク不思議そうな顔をした後、思案するように瞳を斜め上に向ける。そしてやがて、何かを思い付いたように掌をポンと打った。
「すみません。会話の効率性を上げる為に前提を省略してしまいました」
「効率性を上げるって、何の為に?」
「蒼くんは学校というものに行かれるのでは?」
質問を質問で返され、蒼汰はダイニングとリビングの間辺りにある壁掛け時計を見やる。
「あー、確かにそろそろ支度しなきゃまずいかな……」
「そうかと思いましたので」
「お前、人間社会に詳しいのな」
「世界をまたにかける概念、ですから」
「ああ、なるほど?」
納得できたようなできないような微妙な心境だがまあそういうものなのだろう、と思えるくらいには、蒼汰はおおらかな性格だった。
「じゃあ、切りがいいとこまで、とりあえず頼む」
「分かりました」
そして核神は説明を始める。
「まず省略した前提ですが、『壁がなぜ壊れていないのか』という疑問を解消する為には予備知識として、先程途中まで説明した感覚領域を理解する必要があります」
「なるほど」
「で、感覚領域は簡潔に言えば“核神がお互いの存在を感知する機能”です。その範囲はおよそ一万六千四百四フィートになります」
「えっと……それって何メートル?」
「五キロメートルです」
「半端ねえな……」
伊達に人知を超越した存在じゃないな、と蒼汰は認識を改めた。
「なるほどね、それで?」
「ここまでです」
「え?」
「ここが『切りがいいとこ』です」
「気になるんだけどっ!」
そうは言いつつも時間は待ってはくれないわけで。
ひとまず蒼汰は、身支度を開始するのだった。




