95話 精霊が選び、炎が断つ
応用組訓練場は、もはや訓練の名に値する場所ではなかった。
地面は抉れ、土は濡れ、空気は重く渦を巻いている。
魔力の濃度が高すぎて、皮膚がじりじりと痛む。
――精霊の気配。
それも、一柱や二柱ではない。
「……想像以上ね」
エリオラが、低く呟いた。
ナノカ・マキシムは一歩遅れて中へ入り、唇を噛みしめる。
「はい……制御できていません。
完全に“奪い合い”の状態です」
訓練場の中央。
そこに、ナナが立っていた。
いや――
“立たされている”と言った方が正しい。
身体は動いているが、意思が追いついていない。
視線は虚ろで、呼吸は乱れ、足元には無数の精霊の残滓が渦巻いている。
胸元。
服越しでもはっきりと分かるほど、精霊紋が光っていた。
ひとつ、ふたつ――
そして、さらに。
「……増えてる」
ナノカの声が震える。
精霊魔術は、契約魔術だ。
本来は一対一、もしくは数柱まで。
だが今、ナナの身体には、同時に複数の精霊が触れている。
水が形を成し、
風が刃となり、
雷が空気を裂く。
「ナナ……!」
ナノカが叫ぶ。
だが、その声は届かない。
精霊たちは、彼女を守っているつもりでいる。
同時に――
奪おうともしている。
「……厄介ね」
エリオラは、ゆっくりと前に出た。
火属性魔力が、足元から立ち上がる。
赤。
澄み切った、純度の高い炎。
「ナノカ。下がれ」
「で、でも――」
「これは私の仕事だ」
一切の迷いのない声。
ナノカは歯を食いしばり、一歩下がった。
その瞬間。
水の精霊が吼え、巨大な水槍が形成される。
風がそれを加速させ、雷が纏わりつく。
――精霊の連携。
「来るわね」
エリオラは、笑った。
「上等」
無属性魔術が瞬時に展開される。
複数層の障壁。
次の瞬間、水槍が激突――
だが、触れた瞬間に蒸発した。
火属性魔力が、ただ燃やすのではない。
圧で押し返す。
「精霊ども」
エリオラの声が、低く響く。
「ここはお前らの遊び場じゃない」
火が、広がる。
だがそれは破壊の炎ではない。
分断の炎だ。
精霊と、契約者の間に、強制的に境界を引く。
「……っ、あ……」
ナナの喉から、か細い声が漏れた。
精霊たちが、ざわめく。
拒絶しようとするが、火がそれを許さない。
「私の属性を忘れた?」
エリオラは、一歩、さらに踏み込む。
「火はな――」
「奪う力を、焼き落とす」
胸元に手を伸ばし、
火属性魔力を“包むように”流し込む。
焼かない。
壊さない。
――隔てる。
ひとつ、またひとつ。
光っていた精霊紋が、静かに沈んでいく。
最後に残ったのは、
最初に契約した精霊の紋だけだった。
空気が、静まる。
水は消え、風は止み、雷は霧散する。
ナナの身体が、前に崩れた。
「ナナ!」
ナノカが駆け寄り、受け止める。
「……ナノカ、さん……?」
弱々しいが、はっきりした声。
生きている。
意識も、戻っている。
ナノカは、震える手で彼女を抱きしめた。
「……よかった……」
エリオラは、深く息を吐く。
「……はぁ」
頭を軽く掻き、苦笑する。
「精霊魔術師としては、才能の塊ね」
「制御は、最低点だけど」
ナノカが、頭を下げた。
「総隊長……ありがとうございました」
エリオラは背を向けたまま言う。
「礼はいらない」
「育てるってのはな――
失敗ごと、引き受けることだ」
一拍。
「……それに」
少しだけ、声を低くする。
「この先、似た道を通る奴がいる」
ナノカは、その意味を理解していた。
底なしの魔力を持つ少年。
精霊ではないが、危うさは同じ。
「……はい」
エリオラは歩き出す。
「戻るわよ。あっちは走り続けてるはずだ」
「はい、総隊長!」
応用組訓練場に、再び静けさが戻った。
だが、残された傷跡は、確かに語っている。
――力は、選ぶ。
――だが、制御できなければ、喰われる。
その現実を。




