94話 走り続けろ
第三訓練場。
朝の空気はまだ冷たく、地面の土はしっとりと湿っている。
リオルとカイルは、いつも通りエリオラの前に立っていた。
「呼吸、止めるな」
エリオラの声が飛ぶ。
「足だけで走るな。背中と腹、全部使え」
二人は無言で頷き、走り出す。
重心、呼吸、魔力の流れ。
この数週間で叩き込まれたことが、身体に染みつき始めていた。
――その時だった。
第三訓練場の扉が、勢いよく開く。
「はぁ……っ、はぁ……!」
息を切らし、駆け込んできた人物がいた。
「……?」
リオルが反射的に振り向く。
ピンク色のおかっぱミディアム。
小柄だが引き締まった身体。
黄色い瞳が、焦りに揺れている。
ナノカ・マキシム。
アルトレス軍魔術部隊、副隊長補佐。
「エリオラ総隊長……!」
肩で息をしながら、ナノカは叫んだ。
「ナナ二等兵が――暴走状態に入りました!」
その言葉に、空気が一変する。
「……内容は?」
エリオラの声が、低くなる。
「精霊魔術です」
ナノカは即答した。
「しかも、制御不能。
契約精霊との魔力循環が崩れています」
一瞬。
エリオラの表情が、完全に変わった。
それまでの厳しい教官の顔ではない。
戦場に立つ者の顔だ。
「……精霊魔術の暴走、か」
小さく呟く。
次の瞬間、エリオラはリオルとカイルに向き直った。
「お前ら」
二人の背筋が、自然と伸びる。
「今日はずっと走り込みだ」
「私が戻るまで、止まるな」
「……え?」
カイルが思わず声を漏らす。
「文句は聞かねぇ」
エリオラは一歩踏み出す。
「呼吸を合わせろ。魔力を流せ」
「考えるな。身体で覚えろ」
それだけ言うと、踵を返した。
「行くぞ、ナノカ」
「……はい!」
ナノカは一瞬だけリオルとカイルを見る。
「ごめんね、二人」
その言葉を最後に、二人は足早に訓練場を出ていった。
扉が閉まり――
第三訓練場には、再び二人だけが残された。
「……精霊魔術の暴走って」
カイルが、走りながら低く言う。
「やばいやつだよな」
「……うん」
リオルは、前を見たまま答えた。
ナナの顔が、脳裏をよぎる。
穏やかな笑顔。
同じ机で学んだ日々。
(……大丈夫、かな)
胸の奥が、ざわつく。
「走れ!」
カイルが声を張った。
「エリオラが戻るまでだ!」
「……うん!」
二人は、さらに速度を上げる。
息が荒くなる。
脚が重くなる。
それでも、止まらない。
止まることを、許されていないから。
――そして何より。
(……エリオラが、戻るまで)
その言葉の重みを、二人は痛いほど理解していた。
遠く離れた応用組の訓練場では、
精霊魔術という“特別な力”が、牙を剥こうとしている。
それを止められる者が、向かった。
リオルとカイルは知らない。
この日が、
「精霊」という存在の重さを、
誰もが思い知らされる一日になることを。
第三訓練場には、
ただ、二人の足音と荒い呼吸だけが、響き続けていた。




