90話 報告の義務
第2章 リオル修行編
第90話 報告の義務
医療棟の奥、夜明け前の静けさの中。
白い天井の下、カイルは眠っていた。
氷属性の魔力侵食はすでに治癒されている。だが、腕や首筋には、まだ微かに冷たい痕跡が残っていた。
「……生きてる。呼吸も安定」
エド・イレイユスが淡々と告げる。
その傍らに立つミノンは、安堵したように胸を撫で下ろしたが、すぐに表情を引き締めた。
「完全回復、ですよね……?」
「身体は、ね」
エドは眼鏡越しにカイルを見る。
「問題は“心”と“魔力の扱い”です」
それ以上は言わなかった。
ここから先は、医師ではなく――軍の判断になる。
⸻
場所を移し、アルトレス邸・小会議室。
ゼクロア・アルトレス。
ミリア・アルトレス。
そして、報告者としてエリオラ・レヴィナント。
室内に、余計な者はいない。
エリオラは、壁にもたれず、椅子にも座らず、真っ直ぐ立ったまま口を開いた。
「カイル・アーリトレット。二等兵」
短く、事実だけを並べる声音。
「S級魔術を独学で試行。
制御不能に陥り、魔力暴走。
氷属性魔力による自己侵食と、術式の逆流を確認」
一拍。
「私が介入。火属性魔術で術式を焼き切り、鎮圧しました」
ミリアの眉が、わずかに動く。
「……死者は?」
「いません」
即答だった。
「本人も、生きています」
沈黙。
ゼクロアは腕を組んだまま、何も言わない。
促しも、叱責もない。
エリオラは、続けた。
「監督不行き届きです」
自分から、そう言い切った。
「才能があるからこそ、止められなかった。
S級に手を出す覚悟も、制御も、まだ足りなかった」
ミリアが静かに口を開く。
「処分は?」
「必要ありません」
エリオラより先に、ゼクロアが答えた。
低く、しかし迷いのない声だった。
「才能を罰する気はない。
だが――放置もしない」
視線が、エリオラに向く。
「エリオラ」
「はい」
「引き続き、任せる」
それだけだった。
責任を奪わない。
だが、逃がさない。
それがゼクロアの判断だった。
ミリアも頷く。
「カイルだけじゃないわね」
「ええ」
エリオラは小さく息を吐いた。
「S級は、境界線です。
越えた瞬間、“軍人”じゃなくなる」
それは警告だった。
リオルに対しても、そして自分自身に対しても。
「……以上です」
報告は、そこで終わった。
⸻
会議室を出たあと。
エリオラは一人、廊下の窓際に立ち、夜明け前の空を見ていた。
(……死なせなくてよかった)
小さく、そう呟く。
視線の先には、別棟の訓練場。
まだ灯りは消えているが、そこに誰がいるかは分かっていた。
リオル。
あの少年も、同じ境界線に立っている。
「……ほんと、面白ぇ」
頭を抱えるように、エリオラは笑う。
恐ろしくて、危険で。
それでも――
育てずにはいられない。
その背中に、朝の光が差し始めていた。




