89話 凍てつく暴走
夜の訓練場は、昼とは別の顔を持っていた。
人の気配はなく、
風の音だけが、土の地面を撫でていく。
その中央に――
一人の少年が立っていた。
カイル・アーリトレット。
白虎の耳は伏せられ、尻尾は強く揺れている。
額から流れる汗は、すでに冷気で白く縁取られていた。
「……もう一回だ」
かすれた声で、そう呟く。
胸の奥に意識を集中させ、
呼吸を整え、魔力を引き上げる。
(俺も……できる)
(リオルだけじゃない)
(俺だって――)
氷属性魔力が、一気に噴き上がった。
青白い光。
冷気が爆発的に広がり、地面が瞬時に凍りつく。
「――来い……!」
詠唱はない。
術式だけを、無理やり組み上げる。
S級魔術
《アイスピアル・ファンタジア》
五十の氷を人型にし、傀儡のように操る――
“氷の軍隊”。
だが。
「……っ!?」
術式が、歪んだ。
魔力が、制御を離れる。
本来、外へ向かうはずの流れが、
内側へ――カイル自身の身体へ逆流した。
「ぐっ……あ……!」
腕から、脚から、胸元から。
氷属性魔力が侵食する。
皮膚の上に、霜が走る。
血流が、鈍る。
感覚が、削がれていく。
「……止ま……ら……」
意識が、揺らぐ。
次の瞬間。
――五十体の氷の兵が、完全な形で具現化した。
だが、その視線は。
主であるはずのカイルへ、向けられていた。
「……っ、嘘だろ……」
氷の軍隊が、一斉に動く。
剣を構え、
槍を掲げ、
冷気を纏いながら――
主を、敵と認識した。
「……くそ……!」
足が、動かない。
身体が、言うことを聞かない。
氷の刃が、迫る。
――その瞬間だった。
「……ったく」
低く、呆れた声。
次の刹那。
赤い閃光が、夜を切り裂いた。
轟音。
火属性魔力が爆発的に展開され、
氷の兵の先頭が、一瞬で蒸発する。
「――下手くそ」
炎が渦を巻く。
「誰に断って、暴走してんだ」
そこに立っていたのは――
エリオラ・レヴィナント。
赤い魔力を纏い、
土の上にしっかりと足を踏みしめている。
「……エ、リオ……ら……」
カイルの声は、ほとんど音にならなかった。
「喋るな」
即座に言い放つ。
「今のお前は、氷に喰われかけてる」
エリオラは、一歩前へ出る。
火属性魔力を、極限まで圧縮。
詠唱。
「――我が呼吸に従え」
短い詠唱と同時に、
高純度の火属性魔術が展開された。
炎は攻撃ではない。
包む。
溶かす。
中和する。
カイルの身体を侵食していた氷属性魔力が、
徐々に、ゆっくりと剥がされていく。
「……っ、あ……」
呼吸が、戻る。
指先に、感覚が戻る。
だが、氷の軍隊はまだ消えない。
「残りは、私がやる」
エリオラは、肩を鳴らした。
「見とけ。
魔術ってのはな――」
次の瞬間。
エリオラは、地面を蹴った。
無属性魔力を纏った体術。
そこに、最小限の火属性を混ぜる。
氷の兵の懐へ一気に踏み込み、
拳で叩き割る。
蹴りで砕く。
掌で蒸発させる。
炎は使う。
だが、派手には使わない。
「……制御ってのは」
最後の一体を、拳で粉砕しながら。
「力を出すことじゃない」
「――引くことだ」
氷の軍隊が、完全に消え去った。
夜の訓練場に、静寂が戻る。
カイルは、その場に膝をついた。
「……っ……」
悔しさと、恐怖と、情けなさが、
一気に押し寄せる。
エリオラは、そんなカイルを見下ろした。
そして――
頭を、軽く小突く。
「生きてりゃ、上出来だ」
カイルは、唇を噛みしめた。
「……俺、調子乗ってました……」
「知ってる」
即答。
「だから止めなかった」
エリオラは、視線を逸らす。
「越えようとしたんだろ」
「……はい」
「なら、無駄じゃねぇ」
一拍。
「次は、死なないやり方でやれ」
カイルの胸が、熱くなる。
「……はい……!」
エリオラは、背を向けた。
「今日は終わりだ」
「氷に喰われる前に、寝ろ」
去り際、ぼそりと。
「……いい根性してるじゃねぇか」
その言葉を、
カイルは、しっかりと胸に刻んだ。
(……次は)
(絶対に、制御する)
凍てついた夜は、
確かに、彼を一段階押し上げていた。




