87話 届いた報告、届かない背中
第2章 リオル修行編
87話 届いた報告、届かない背中
アルトレス邸・執務室。
高い天井と重厚な机。
その場にいるのは三人だけだった。
ゼクロア・アルトレス。
ミリア・アルトレス。
そして――エリオラ・レヴィナント。
「……で?」
ゼクロアが短く促す。
エリオラは腕を組んだまま、いつものぶっきらぼうな口調で言った。
「リオルがな」
一拍。
「S級魔術を二つ、同時に展開した」
ミリアの眉が、わずかに動く。
「……二つ?」
「しかも」
エリオラは、にやりと笑った。
「詠唱破棄だ」
一瞬、沈黙。
空気が張り詰める……かと思いきや。
ゼクロアは、静かに息を吐いた。
「……そうか」
それだけだった。
ミリアがゼクロアを見る。
「驚かないの?」
「驚きはした」
ゼクロアは正直に答える。
「だが、納得もしている」
視線を、窓の外へ。
「底なしの魔力。
呼吸と身体が噛み合い始めた今なら……」
「いずれ、そうなる」
エリオラは鼻で笑った。
「いずれ、ね。
思ったより早かっただけだ」
「それで?」
ミリアが問う。
「危険性は?」
「制御は完璧だ」
即答だった。
「暴走の兆しは一切ない。
むしろ、精密すぎて気持ち悪いくらいだ」
「……エリオラ」
ミリアが低く言う。
「無理はさせてないでしょうね」
「してねぇよ」
エリオラは肩をすくめる。
「無茶はさせたがな」
ミリアがため息をつく。
ゼクロアは、しばらく考え込んでから言った。
「――今後も、リオルの訓練は」
「引き続き、エリオラに任せる」
迷いのない声。
「他の誰も、手を出さない」
「それでいいの?」
ミリアが確認する。
「いい」
ゼクロアは頷いた。
「今のあの子には、
制御できる“師”が必要だ」
「……できる?」
ミリアがちらりとエリオラを見る。
「できるさ」
エリオラは、口角を上げた。
「私が折れなきゃな」
ゼクロアは、ほんの一瞬だけ笑った。
「頼む」
その言葉は、命令ではなかった。
完全な信頼だった。
⸻
同じ頃。
第三訓練場から少し離れた、人気のない訓練区画。
そこに、ひとつの影があった。
カイル・アーリトレット。
白虎の耳を伏せ、
無言で立っている。
(……同時展開)
(……S級)
拳を、強く握る。
あの光景が、何度も頭をよぎる。
炎と水の軍隊。
並び立つ五十の傀儡。
(……届かねぇ)
分かっている。
リオルは特別だ。
生まれ持った器が違う。
それでも――
「……くそ」
吐き捨てる。
悔しさが、胸から溢れて止まらない。
「だったら……」
カイルは、静かに立ち位置を整えた。
呼吸を、整える。
――吸う。
――吐く。
冷たい魔力が、体内を巡る。
白く、鋭く、研ぎ澄まされた感覚。
「……氷よ」
低い声。
「俺の意思に従え」
詠唱は、ない。
だが、術式は頭の中で組み上がっている。
リオルが使った魔術。
あの“幻想”の構造。
それを、氷で再現する。
「――《アイスピアルファンタジア》」
瞬間。
空気が凍りついた。
一つ、二つ、三つ。
氷が、人の形を取り始める。
だが――
五つ目で、軋みが走る。
「……っ!」
魔力が、乱れる。
氷の兵士が、ひび割れ――砕けた。
カイルは、膝をつく。
「……はぁ……はぁ……」
息が荒い。
額から、冷や汗が落ちる。
(……まだ、だ)
分かっている。
実力不足だ。
「……でも」
顔を上げる。
砕けた氷の残骸を、睨む。
「……諦めねぇ」
リオルの背中は、遠い。
だが。
(……追いかける)
(……追いつく)
拳を、もう一度握る。
その目に、迷いはなかった。
その日から。
カイル・アーリトレットは、
誰にも言わず、
誰にも見せず、
一人で剣を振り、魔力を練り続ける。
その悔しさが、
やがて――
彼自身の刃になることを、
まだ誰も知らない。




