80話 呼吸はもう独りじゃない
まだ日が昇りきらない時間帯。
訓練場には、朝露の冷たい空気が残っていた。
人気はない。
本来なら、まだ誰も来ていない時間だ。
だが――
「……はぁ……っ、はぁ……」
静かな呼吸音が、規則正しく響いていた。
走っているのは二人。
リオルと、カイル。
重しは付けていない。
だが、ただ走っているわけでもない。
「……吐いて……」
リオルが小さく呟く。
「……流して……」
足音と呼吸を合わせるように、
体の奥にある“感覚”を意識する。
走るたびに、
胸の奥から、ゆっくりと魔力が流れ出す。
暴れない。
押し出さない。
ただ、血液のように巡らせる。
「……今の、ちょっと早い」
カイルが息を整えながら言う。
「……うん」
リオルは頷き、ペースを落とす。
二人の間に、焦りはなかった。
競っていない。
比べていない。
ただ、続けている。
しばらく走り込みを終えると、
二人は訓練場の端で立ち止まった。
「……次、いくぞ」
「……うん」
今度は筋力訓練。
腹筋。
背筋。
腕立て。
ただし――
「……呼吸、止めるな」
カイルが言う。
「……分かってる」
リオルは答えながら、動きを続ける。
筋肉が軋む。
だが、以前のような苦しさはない。
力を入れる瞬間に、吐く。
戻すときに、自然に吸う。
そのリズムに合わせて、
魔力を“留めず、流す”。
「……前より、楽だな」
カイルが、ぽつりと漏らす。
「……うん」
リオルも、同意する。
汗は流れている。
息も荒い。
だが、体の内側は――不思議なほど安定していた。
その様子を、
少し離れた場所から見ている影があった。
赤髪を揺らし、腕を組んだ女。
エリオラ・レヴィナント。
二人が自主的に訓練していることにも、
内容にも、
彼女は特に驚いた様子を見せなかった。
しばらく黙って眺めたあと――
「……熱心なことだ」
低く、楽しそうな声。
リオルとカイルが、同時に振り向く。
「……あ」
「……いつから見てたんだよ」
エリオラは口の端を吊り上げた。
「最初からだ」
そして、一言。
「だが――」
少しだけ、声の調子を変える。
「最後まで体力は残しておけよ?」
にやり。
それは注意でも、叱責でもなかった。
“先を見据えろ”という、
訓練者への信頼の言葉だった。
「……はい」
リオルは、素直に頷く。
「……わかってる」
カイルも、短く答える。
エリオラは、それ以上何も言わない。
「じゃあ、続きをやる」
そう告げると、
いつもの厳しい訓練が始まった。
だが、この日のメニューは、少し違った。
「筋トレしながら、流せ」
エリオラの声が飛ぶ。
「力を入れるな。巡らせろ」
「魔力は武器じゃねぇ。体の一部だ」
腹筋の最中も。
腕立ての途中も。
呼吸と一緒に、
魔力を“意識し続ける”。
途中、何度も乱れそうになる。
だが――
「……今の、浅い」
「……修正する」
二人は、互いに声を掛け合った。
以前なら、あり得なかった光景だ。
走り込みも同じ。
ただ速さを求めない。
距離をこなすだけでもない。
「……吐け」
「……今だ」
足音と、呼吸と、魔力。
三つが、少しずつ噛み合っていく。
エリオラは、遠くからそれを見ながら、
小さく息を吐いた。
(……ちゃんと、前に進んでる)
まだ、足りない。
まだ、未熟だ。
だが――
「……悪くねぇ」
その呟きは、誰にも聞こえなかった。
朝の光が、訓練場を照らし始める。
リオルとカイルは、息を切らしながらも立っていた。
倒れない。
崩れない。
“やり切れる体”が、
少しずつ出来上がってきていた。
修行は、もう
「やらされるもの」ではなかった。
それは、
二人の日常になり始めていた。




