74話 慣れるということ
あの夜から、すでに二日が経っていた。
その二日間、リオルとカイルの生活は、ほぼ同じ内容の繰り返しだった。
朝は夜明け前に起き、
呼吸を整え、
筋肉が悲鳴を上げるまで鍛え、
そして走る。
ただ走るのではない。
呼吸を意識し、乱れたら即やり直し。
脚が止まりそうになっても、立ち止まらない。
逃げ場のない、地味で、確実に効く修行。
そして三日目の朝――
エリオラは、二人を第三訓練場の外へ連れ出した。
「今日は街まで行く」
その一言に、カイルが目を見開く。
「街って……港街か?」
「そうだ」
エリオラは淡々と答える。
「アルトレスの港街。
そこまで走って、戻ってくる」
「……何本?」
嫌な予感しかしない問いに、
エリオラは少しだけ口角を上げた。
「十」
「じゅっ……!?」
カイルの声が裏返る。
港街までは、訓練場から片道でも相当な距離がある。
それを往復十回。
しかも、昼前から始めて――
「夕方までだ」
追い打ちのように告げられ、
カイルは思わず天を仰いだ。
「死ぬ……」
「死なない」
エリオラは即答する。
「倒れる前に、身体が順応する」
そう言って、二人の肩に重しを載せた。
「今日の目的は“慣れ”だ」
「筋力じゃない。
魔力でもない」
エリオラは、リオルを見る。
「呼吸と動作を、切り離さないこと」
「走りながら、呼吸を制御しろ」
リオルは、静かに頷いた。
この二日間で、
彼は“呼吸を整える”という行為を、少しずつ自分のものにし始めていた。
止まっているときだけじゃない。
歩きながら。
負荷がかかった状態で。
そして今日は――
それを“走りながら”やる。
「私は付き添わない」
エリオラはそう言った。
「自分たちで行ってこい」
「え?」
カイルが思わず振り返る。
だが、エリオラはもう背を向けていた。
「時間は測っている。
サボれば分かる」
その言葉だけ残して、
彼女は高台へと向かっていく。
第三訓練場と港街、両方を見渡せる位置。
(……見てるな)
リオルは気づいていた。
付き添わないと言いながら、
逃げ場のない位置から、ずっと見守るつもりなのだと。
「……行くぞ」
カイルが、悔しそうに歯を食いしばる。
「負けねぇからな」
「……うん」
二人は走り出した。
最初の一本目は、まだ余裕があった。
呼吸を数え、
吐くことを意識し、
脚の運びと合わせる。
(二歩で吐く、四歩で吸う)
リオルの中で、一定のリズムが形を作る。
二本目。
三本目。
脚は重くなるが、
息は乱れにくくなっていた。
四本目を終えた頃、
カイルが肩で息をしながら叫ぶ。
「……お前、息切れしてねぇな……」
「……してるよ」
リオルは正直に答えた。
「でも……前より、戻るのが早い」
それは事実だった。
胸の奥に熱はある。
だが、暴れない。
呼吸で抑え込める範囲に収まっている。
五本目。
六本目。
港街の人々が、驚いたように二人を見る。
訓練用の重しをつけたまま、
何度も何度も街を往復する少年たち。
だが、声をかける者はいない。
それがアルトレスだった。
七本目を終えた頃、
カイルがついに膝に手をつく。
「……くそ……」
「……大丈夫?」
「大丈夫じゃねぇけど……止まらねぇ……」
八本目。
九本目。
身体は限界に近い。
だが、不思議と恐怖はなかった。
(……動ける)
それが、はっきり分かる。
そして――
十本目。
夕方の光が、港を染める頃。
二人は、最後の一本を走り切った。
訓練場に戻った瞬間、
カイルはその場に倒れ込む。
「……もう、無理……」
リオルも膝に手をついたが、
倒れはしなかった。
呼吸を整え、
ゆっくりと息を吐く。
(……まだ、立てる)
高台から、エリオラが降りてくる。
「よくやった」
短い言葉。
だが、その目は確かに満足していた。
「呼吸、安定してきたな」
「身体も、走ることに慣れてきてる」
カイルを見下ろしながら、付け加える。
「今日はここまでだ」
「……助かった……」
「勘違いするな」
エリオラはきっぱり言う。
「これは“始まり”だ」
そう言って、二人に背を向けた。
だが――
その背中は、どこか誇らしげだった。
港から吹く風の中、
リオルは胸の奥に残る感覚を確かめる。
重い。
苦しい。
それでも――
(……ちゃんと、前に進んでる)
そう、はっきり感じられた一日だった。




