72話 息を走りに通す
第三訓練場。
朝の空気は冷えているが、
リオルとカイルの身体は、すでに温まっていた。
昨日も走った。
その前の日も走った。
筋肉痛はある。
脚は重い。
だが――
「走れない」感覚は、もうない。
少し離れた場所で、ヴォルクルとミノンが控えている。
今日も護衛のみ。
口は出さない。
中央に立つエリオラが、二人を見た。
「昨日までの“走る”は、ただの下地だ」
低く、淡々とした声。
「今日は違う」
そう言って、地面を軽く踏む。
「今日は、走りながら呼吸を使う」
カイルが、眉をひそめた。
「……昨日と何が違う?」
「頭だ」
即答だった。
「脚じゃねぇ。肺でもねぇ」
「意識の置き場だ」
エリオラは二人の腹部を指差す。
「止まってるときは、もう出来てる」
「歩いてるときも、ほぼ問題ねぇ」
「だから今日は――」
一拍。
「走っても、呼吸を“崩さない”」
「魔力に触れない」
「速さに酔わない」
「勝とうとしない」
「ただ、合わせろ」
重しは、昨日と同じ。
追加はない。
それだけで、意味が変わる。
「行け」
二人は同時に走り出した。
昨日より、速度は抑えめ。
だが――
その分、意識が内側に向く。
(吐く……)
リオルは、脚ではなく腹に集中する。
吸うことは考えない。
吐くことだけを、一定に。
重しが揺れる。
石畳が続く。
速度を変えても、止まらずに。
「……リオル」
エリオラの声が飛ぶ。
「今、速さに寄った」
「……っ」
すぐ分かった。
ほんの一瞬、
“走れている感覚”に気を取られた。
呼吸が、わずかに浅くなった。
(……だめだ)
意識を戻す。
吐く。
吐く。
呼吸が整うと、脚の重さが少し遠のく。
「……いい」
短く評価が落ちる。
今度は、カイル。
「お前は、焦りすぎだ」
「勝ちたい呼吸してる」
「……っ」
カイルは、悔しそうに歯を噛みしめる。
だが、速度を落とし、呼吸を合わせ直す。
走りながら、修正する。
これが今日の目的だった。
方向転換。
小さな段差。
石畳の継ぎ目。
全てを、呼吸を崩さずに越える。
昨日なら、力で誤魔化していた。
今日は、誤魔化せない。
「――止まれ」
エリオラが手を上げる。
二人は、その場で立ち止まった。
倒れない。
座らない。
立ったまま、呼吸を続ける。
「……」
エリオラは、しばらく二人を観察してから言った。
「リオル」
呼ばれて、顔を上げる。
「走りは普通だ」
「筋力も、まだ足りねぇ」
だが――
「呼吸は、走りに通り始めてる」
はっきりとした評価。
「立ってるだけなら異常だったが」
「動いても崩れねぇのは、才能だ」
リオルは、息を吐きながら、静かに頷いた。
「カイル」
「……はい」
「お前は、まだ欲が邪魔する」
「だが、それを抑えようとしてる」
「悪くねぇ」
それだけ言って、エリオラは背を向ける。
「今日はここまでだ」
「身体は使ったが、壊してねぇ」
「だから――」
振り返らずに、一言。
「今日も、とことん休め」
走り続けたわけでもない。
限界まで追い込まれたわけでもない。
それでも――
今日の方が、はるかに疲れていた。
(……頭、使った)
リオルは、そう思いながら、静かに息を整え続けた。




